基本情報
形態:山城
史跡指定:国指定特別史跡
標高:276m
城の整備:駐車スペース(3台程度)、陸軍が作った車道、登山道
所要時間:4時間(全て見ると)
訪問日:2019年3月
古代山城の分類
古代山城の分類
最近の研究では、朝鮮式山城や神籠石という名称よりも、
(日本書紀)天智紀記載山城
史書記載山城
史書非記載山城
という分類が推奨されつつあり、
構築順は、
(日本書紀)天智紀記載山城→瀬戸内の史書非記載山城→九州の史書非記載山城
というのが大まかな流れだということが分かってきております。
ちなみに、百済語で「城」は「き」と発音します。
(日本書紀)天智紀記載山城
【(日本書紀)天智紀記載山城】
水城: 664年(天智三)日本書紀
長門城:665年(天智四)百済亡命高級官僚の達率答㶱春初 が築城 (未発見)日本書紀
大野城:665年(天智四)百済亡命高級官僚の達率憶礼福留・達率四比福夫が築城 日本書紀
基肄城:665年(天智四)百済亡命高級官僚の達率憶礼福留・達率四比福夫が築城 日本書紀
高安城:667年(天智六)日本書紀
屋嶋城:667年(天智六)日本書紀
金田城:667年(天智六)日本書紀
史書記載山城
【史書記載山城】天智紀記載山城以外で文献に名前はあるが、修理や廃止記事の城
鞠智城:698年(文武二)修理する 続日本紀
三野城:699年(文武三)大宰府に命じて、修理する (未発見)続日本紀
稲積城:699年(文武三)大宰府に命じて、修理する (未発見)続日本紀
常城: 719年(養老三)廃止する 続日本紀
茨城: 719年(養老三)廃止する 続日本紀
怡土城:756年(天平勝宝八)吉備真備・佐伯今毛人らが築城 続日本紀
史書非記載山城
【史書非記載山城】便宜上、神籠石の名は残ったまま
瀬戸内
城山城(兵庫県たつの市)築城途中?
大廻小廻山城(岡山県岡山市)
鬼ノ城(岡山県総社市)
石城山神籠石(山口県光市)
城山城(香川県坂出市)築城途中?
永納山城(愛媛県西条市)
長者山城(広島県東広島市)
九州
阿志岐山城(福岡県筑紫野市)
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)
雷山神籠石(福岡県糸島市)
女山神籠石(福岡県みやま市)
杷木神籠石(福岡県朝倉市)
唐原山城(福岡県築上郡)
鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)
高良山神籠石(福岡県久留米市)
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)
縄張り図 現地看板
この地図には、重要なことが記載されています 後半で明らかに!
古代山城は、一般的な中世戦国の山城とは作り方が全く違います。
中世山城は曲輪をいくつも連ねる連郭式などですが、古代山城は単郭で山頂に城がドンと乗っかっているイメージ。築城の発想が違います。
この金田城は、城壁の大部分が高さ2m以上ある唯一の古代山城となります。そのあたりの戦国大名とは全く規模が違う
「桁違いの狂気」
「圧倒的じゃないか」
をご紹介します。
地質の側面から見る
地質の場所的に、花崗岩(赤帯)と堆積岩(緑部)が取れるようです。この岩は、「石英斑岩」というものらしくゴツゴツとした見た目も固い。だから、大量の岩石を確保できたのでしょう。
では、出発
前日まで、嵐のような天気。昼まで待機していざ、登城。駐車場は、狭く車三台で無理かも。簡単なパンフレットがあります。
この道は、旧日本軍が作った車道で、ハイキングにもってこいですね。
え??何で旧日本軍なのか??
↓↓↓気になった方は、その2に進むこともあり!
黒瀬湾を見渡しながら、進みます。
道は歩きやすくて丁度いい。旧日本軍の仕事は、いつも丁寧です。実は前日は、ものすごい嵐で本日は登城できるか心配でしが、宿の女将いわく「大丈夫」とのことでした。まさに。
眺望
エメラルドグリーンの黒瀬湾!!素晴らしい景色。風の波紋が見えて内海ならでは。
城域に入る
南門~東南角石塁のインパクト
なんか、看板が見えてきましたよ。
!!!
「これか~~!!!」なんという土木量。なんという崩れ方。
自然石による野面積み
どうやって、、、どれだけの人がこの岩を運んだんだ!
東南角石塁
この東南角石塁は、別名「雉・雉城」と言われている出っ張りで、「雉」とは「鳥のきじ」の意味ですが、岡山県の鬼ノ城にもあります。朝鮮築城術の一つとなっており、見張り台なのでしょう。
雉城(チジョウ・チソン)
中国では馬面(バメン)
その「東南角石塁」の端は、崩れている。どべーーーーーと。
国の存亡の危機、国家プロジェクトとなると、ここまでになるのか。凄すぎる。なんとも興奮が収まらず、写真を撮るだけでも手元がおぼつかないながらも、
矢印に従い進む。
三ノ城戸
三ノ城戸へ。城戸とは、城郭の出入り口の名称のこと
残ってる。残ってる。
ん?
この城戸は、左右で作りが違うのがわかります。右側は、野面でがっちり組まれているものの、左側は大きく崩れさっております。
門跡柱の跡がありますが、流水の影響かひっちゃめっちゃか。この散在具合がタマラナイなあ
実は、この三ノ城戸の西側は後世の修繕が行われている可能性があるとのこと。
根拠としては、目地がなく、算木積みではなかったり、谷積みがみられること。逆に東側は当時のものの可能性があるらしい。(北垣聡一郎氏見解)
下の方は、割と大きな岩を配置し、上は、多少小さい。下の岩が大きいとすごーーーーく威圧感があります。狭い空間なので尚更です。
最下層には、穴が開いていてかろうじて今でも水が流れている。
二ノ城戸 復元石塁
場所は変わって二ノ城戸は、かなり修復されている様子
どこまで修復されているのか。全体なのかは分かりづらいです。岩石も割と小さいかな
そのまま横へ移動します。ずっと、石塁が横を走ります。
お!なんか、見えてきました。
一ノ城戸
そして、一ノ城戸へ。
じーーー
じーーーーー
と見ていて、面白いことに二つほど気が付きました。
こんな真四角の築石はあんまり他では見ません。
なにやら、積み方が独特です
何か、違和感を覚えます。
上と下とでは、積み方が違う。
上は、泥岩による布積み
下は、石英斑岩による野面乱積み
修復されたのか、監督者が変わったのか、、、ちょっと何かおかしい。
そこで、古代山城研究会機関紙「溝婁 第4号」を読んでみると、次のような見解がされておりました。
一の城戸は、突出部だが「望楼」ではなく虎口を守る「横矢掛かり的」な設備
大吉戸神社の裏側にもう一か所の突出部があり、下部は野面積み、上部は切石加工
船着き場の護岸にも同様の切石が使われている
つまりこのような感じであり、明らかに船着場からの上陸を意識した縄張りとなります。
一の城戸は、建築当初はなかったが、廃城後に船着き場の移動に伴って、城山のメインの入り口になった。つまり、下部遺構も含めて、この二つの突出部は、新規遺構の可能性が大きい。
ということでした。
一の城戸と三の城戸を含め、金田城は全体にかなりの修繕が入っている可能性が大きいとのこと。
なぜ大規模修繕されたのか
では、なぜ修繕されたのか、ということですが、
・1861年(文久元年) ロシア軍艦「ポサドニック号」事件
・1798年(寛政元年) 対馬藩 海辺御備覚
などの外部の影響があったのではないかと考えられております。特に「ポサドニック号」事件は、ほっとけばたいへんなことになったロシアの横暴です。
参考文献:
古代山城研究会機関紙「溝婁 第4号」
半田山地理考古 第11号 古代山城の石垣 乗岡実氏
古代編は以上。次の近代編では、もうめちゃくちゃな事態に。。。↓↓↓
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