中世山城を暇を見つけては登城している中で、とある「お城」の存在を知りました。
古代山城(こだいさんじょう)との出会い
岡山県 鬼ノ城を訪れて
この岡山県総社市にある「鬼ノ城」。2014年8月のことです。
当初は、備中松山城に登城するついでに
ちょっと、寄ってみるか
程度の認識でしたが、しかし、訪れるとその「規模」と「異様さ」に驚きました。
日本の城とは構造的に全く異なる曲輪がない城
三国志とか中国とか大陸にありそうな異形の山城
というのが第一印象。しかも、ビジターセンターで見た丁寧な説明書きから、世の中に「古代山城」というカテゴリーが存在し、北部九州や瀬戸内を中心に、まだまだ20城以上確認されているということを知ったのでした。
古代山城とは
時代背景
663年に朝鮮半島南西部の白村江の河口で行われた「白村江の戦い」で、倭・百済連合軍は唐・新羅の連合軍に敗れ、王都飛鳥の防衛のために築かれたのが「古代山城」とされております。
時系列にみてみますと、
645年 大化の改新 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)のちの天智天皇ら活躍
660年 朝鮮半島では計17万人の「唐・新羅連合軍」侵攻により同盟国の百済 滅亡
百済国王・皇太子以下1万2千人が唐 の都 洛陽へ連行
日本へは多くの貴族・官人・軍人が「帰化人」としてヤマト王権へ組み込まれる
663年 百済再興を目指した倭・百済連合軍は「白村江の戦い」にて唐・新羅連合軍に大敗した
そのため、唐・新羅連合軍が倭に侵攻してくる可能性があった。
国家存亡の危機!!
そこで、ヤマト王権が取った対策としては、
664年 福岡の大宰府防衛のために「水城(土塁)」建築
665年 「長門城」「大野城」「基肄城」「高安城」「屋嶋城」「金田城」を順次築城
667年 首都防衛のために飛鳥から「近江大津京」へ遷都
古代山城の分類
これまで「古代山城」は細かく分類しますと、過去の学説から主に3つに分かれておりました。百済語で「城」は「き」と発音します。
神籠石系山城:日本書紀や続日本書紀などの文献に記載されていない古代山城。
朝鮮式山城:日本書紀や続日本書紀などの文献に記載されている古代山城 12城が該当する。
中国式山城:怡土城 中国式 遣唐使として唐帰りの吉備真備が756年に築城指示
しかし、民俗学者の柳田國男氏によると、神籠石とは
(1910年)
「孤立せる奇石の名なり」
と説き、「石神や磐座などの岩石祭祀の対象である神体石を指す言葉」であるとのことから、
最近、列石である「神籠石」の呼び方を変えようとする流れがあります。そこで、当ブログでも
朝鮮式山城→史書記載山城(あるいは日本書紀天智紀記載山城)
神籠石系山城→史書非記載山城
と呼ぶことを提唱します。
北部九州と瀬戸内を中心に約25城ある古代山城も分類が進んでおります。
また構築順も石垣から判断すれば、
(日本書紀)天智紀記載山城→瀬戸内の史書非記載山城→九州の史書非記載山城(乗岡実氏)
というのが大まかな流れだという説があります。
(日本書紀)天智紀記載山城
【(日本書紀)天智紀記載山城】
水城: 664年(天智三)日本書紀
長門国城:665年(天智四)百済亡命高級官僚の達率答㶱春初 が築城 (未発見)日本書紀
大野城:665年(天智四)百済亡命高級官僚の達率憶礼福留・達率四比福夫が築城 日本書紀
基肄城:665年(天智四)百済亡命高級官僚の達率憶礼福留・達率四比福夫が築城 日本書紀
高安城:667年(天智六)日本書紀
屋嶋城:667年(天智六)日本書紀
金田城:667年(天智六)日本書紀
史書記載山城
【史書記載山城】天智紀記載山城以外で文献に名前はあるが、修理や廃止記事の城
~文武天皇期~
鞠智城:698年(文武二)修理するとの記載 続日本紀
三野城:699年(文武三)大宰府に命じて、修理するとの記載 (未発見)続日本紀
稲積城:699年(文武三)大宰府に命じて、修理するとの記載 (未発見)続日本紀
~元正天皇期~
常城:719年(養老三)廃止するとの記載 続日本紀
茨城: 719年(養老三)廃止するとの記載 続日本紀
~孝謙天皇期~
怡土城:756年(天平勝宝八)吉備真備・佐伯今毛人らが築城との記載 続日本紀
史書非記載山城
【史書非記載山城】便宜上、神籠石の名は残ったまま
【瀬戸内】
城山城(兵庫県たつの市)築城途中?
大廻小廻山城(岡山県岡山市)
鬼ノ城(岡山県総社市)
石城山神籠石(山口県光市)
城山城(香川県坂出市)築城途中?
永納山城(愛媛県西条市)
長者山城(広島県東広島市)
【九州】
阿志岐山城(福岡県筑紫野市)
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)
雷山神籠石(福岡県糸島市)
女山神籠石(福岡県みやま市)
杷木神籠石(福岡県朝倉市)
唐原山城(福岡県築上郡)
鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)
高良山神籠石(福岡県久留米市)
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)
想定戦場について
仮に進行してきた唐・新羅連合軍をヤマト政権は、どのように迎え撃つ防衛軍略であったのでしょうか。その想定戦場について、下記のような説があります。
1.福岡平野
2.筑紫平野
3.燧灘(ひうちなだ)
4.古代山陽道 古代南海道
5.高安城周辺
特に、興味深いと感じたのは、「燧灘」説です。この頃の最速交通手段は、当然「船」であり、唐の大軍団が王都飛鳥を目指して、東航するとなると、どこかで迎え撃つ必要があります。
その決戦場の一つが、燧灘の現在の広島県福山市鞆の浦あたりです。ちょうど双方からの海流がぶつかる「海流境」があることが知られており、この燧灘を取り巻く形で、古代山城が存在しています。
唐・新羅連合軍は来なかった
しかし、白村江の戦いから時が経ちましたが、その唐・新羅連合軍はついに攻めてはきませんでしたが、当時の日本は、強力な中央集権国家確立を目指している最中。
670年 「庚午年籍」作成
日本最初の全国的戸籍「庚午年籍」を作成を行い、税や徴兵制度に活用したのでした。奇しくも国家的危機が、結果的には国造りに活用された形となりました。また、朝廷内部でも
669年 天智天皇政権下 最重鎮だった中臣鎌足(藤原鎌足)死去
671年 天智天皇 死去
672年 天武天皇(大海人皇子)即位 後飛鳥岡本宮(のちの飛鳥浄御原宮)へ移る
694年 「藤原京」へ遷都
701年 「大宝律令」制定 律令国家の基本法典
710年 「平城京」へ遷都 奈良時代へ
時代が変わるにつれて、北部九州に多数存在する古代山城の「役割も変化」し、当初の目的であった「防衛拠点」から「統治拠点」へと役割が移っていった可能性があるという説もあります。
そして、
719年 古代山城の「茨城・常城」が運用停止 奈良時代初期 続日本紀(しょくにほんぎ)
それらの古代山城も役割を終えていき、その築城術も引き継がれることもありませんでした。次第に、歴史の舞台から消えていくこととなり、時は平安時代へと移っていきます。
アドベンチャーツーリズムにマッチ
これら古代山城を訪問してみて感じたことは、その存在もさることながら、当ブログのテーマ「アドベンチャーツーリズム」にマッチしたものでした。
1.外周を廻ると半日程度掛かるアクティビティである
2.道は整備されたものが多く、歩きやすい
3.古代山城自体は、完全に異文化の山城
4.周辺には、古墳や国府跡などがあり周遊できる
など、見どころも多く完全なアクティビティです。ただし、時間が掛かるものも多いため、登城には時間の余裕をもった計画が必要となります。
本州
岡山県
四国
香川県
九州
福岡県
長崎県
~番外編~
香川県 皇踏山城
管理人が直接的に「古代山城」を調べようと思ったキッカケが、小豆島にある「皇踏山城」との出会いです。
当初、サプライズ知ったこの「しし垣」の存在に驚き、詳しく調べていく中で、「これは古代山城というものではないのか」と疑問を持ったのでした。。
結果的には、残念ながら「古代山城」ではありませんでしたが、個人的に、現地調査と文献調査と注力しましたので、掲載します。
参考文献
よみがえる古代山城: 国際戦争と防衛ライン 向井一雄氏
第63回古代山城研究会 脇坂説からみた常城推定地の城壁線について 松尾洋平氏
古代山城研究会 研究報告会 長者山城跡 新発見の安芸の古代山城 調査報告書
第65回古代山城研究会例会 謎の山城・茨城を探る 古代山城・茨城と芋原の大すき跡
古代山城の石垣 乗岡 実氏
古代城郭研究の黎明期 向井一雄氏
日本列島古代山城の軍略と王宮・都城 井上和人氏 など
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