長篠設楽原に行ってみた
この屏風絵は誰もが知る「長篠合戦図屏風」。「織田信長と徳川家康の連合軍」と「武田軍」の激戦。通説ではその結果、近代兵器「鉄砲隊の三段撃ち」が、古来の武田騎馬隊を蹴散らし、「武田家」の衰退が加速したなどなど、転換点となった戦とされています。
あまりにも有名な戦場ですので、
一度、現地を見てみたい
と思うのは、必定でしょう。そこで夏の暑い時期に来てみました。
新城市設楽原歴史資料館
まずは、「新城市設楽原歴史資料館」にて情報収集。
さすが、鉄砲に関する展示が充実しております。他にも「合戦時の物」と伝わる遺品や遺物がたくさん展示されており、これだけでも見ごたえ十分です。特にこの整然と並べられた鉄砲には「身震い」を覚えます。全て、一流の兵器ですから。
真田信綱、馬場信春、山県昌景、内藤昌秀、原昌胤、真田昌輝などの武田家の重鎮が討死。。。いろんな本やマスメディアで出てくる有名な武将がばっかり。個人的は、城造りの名人だった「馬場信春」の討死は
悲しい。。。
屋上に登ると、戦場を一望することが出来る
設楽原を見渡せます。そこで、真っ先に思ったことは、両軍の陣営が思って以上に
近くない!??
イメージでは、もっと両陣営が離れていて、だだっ広い原っぱで、「織田信長と徳川家康の連合軍」が火縄銃を打ちまくり、横一列に突っ込んでくる「武田騎馬隊」を壊滅させたと思っていましたが、意外に「近く」て「狭い」という事実に驚きました。
「織田信長と徳川家康の連合軍」陣地に近づいてみる
ここが「織田信長と徳川家康の連合軍」陣地ですか。なるほど。この辺りは、多少原っぱですね。
築かれた馬防柵は、総延長2㎞。決戦の正面は、三重になっていたとのこと。確かに厳重な防備です。
馬防柵の内側は、小高い丘になっている。しかし、この日は8月ということもあり、暑くて、草も多くて喉が渇いて、侵入は断念しました。
そこで疑問が
実際に、現地を訪れてみて感じたことは、前述の通りで、
1.設楽原は狭い
2.両軍の陣営は近い
ということでした。果たして、「武田騎馬軍団」は大暴れして、「織田信長と徳川家康の連合軍」は鉄砲の三段撃ちは実現可能だったのでしょうか。うーーん。そこで、改めて、「長篠合戦図屏風」を見てみました。
ふと気が付いたことがあります。「無敵の武田騎馬軍団」なはずですが、
ほとんど馬に乗っていない!
確かに大将クラスと思し召しき人物は、馬に乗っていますが、その他の足軽や従者は「徒歩」で戦っています。無敗の武田騎馬軍団はどこ??そこで、ふと思い出したのが、以下のこれです。
国宝「蒙古襲来絵詞」です。この絵も誰もが知っている超有名な鎌倉時代の作品。肥後国の御家人「竹崎季長」が自分の戦いをPRするために描かせたものとされています。そこでモンゴル軍と言えば、
無敵の蒙古騎兵
を真っ先に思い浮かべます。
13世紀から14世紀にかけてユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国は、「蒙古騎兵」と呼ばれる最強騎馬軍団を持っていたとのこと(あんまり世界史は詳しくないです)。しかし、この国宝「蒙古襲来絵詞」では、騎馬軍団はおらず、元軍は徒歩で戦っています。
船にも馬の姿はありません。ひょっとして連れてこなかった!?両方の「長篠合戦図屏風」「蒙古襲来絵詞」を見比べて思うに、実際に元軍も武田家も「無敵騎馬隊」は存在したのだと思いますが、
それぞれの戦いでは「騎馬隊の参戦は無かった」のに、「最強騎馬軍団」というイメージが先行しすぎて、後世にストーリーが作られていったのではないかと思いました。
「設楽原の戦い」とは、なんだったのか
戦場の種類
設楽原の立地をどのように考えるかがポイントだと思います。それは、
- 広い原っぱでの「広域戦」
- 狭い谷間の「局地戦」
捉え方ですが、管理者は「狭い谷までの局地戦」なのではないのかと思います。
兵力差
ザックリ兵力数を調べてみると
- 「織田信長と徳川家康の連合軍」:38,000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊4,000)
- 「武田軍」:武田軍15,000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3,000)
との情報がありました。いろいろな研究者分析で多少の差はあるようですが、連合軍の兵力はおよそ武田軍の「2.5~3倍程度」とのこと。
参考:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ランチェスターの法則」で考えてみると
「場所」と「兵力数」ち「武器」が分かったので、
ランチェスター法則で分析できるかも
と、ちょっと考えてみました。
「ランチェスターの法則」とは
というもので、法則自体は非常にシンプルですが、「オペレーションズリサーチ」の「コープマン」らが研究し、第二次世界大戦の戦略や戦術に応用しました。その概念が以下です。
「強者の戦略」と「弱者の戦略」とは
簡単に説明すると「自分の立場や立ち位置によって戦い方を変える」という考え方です。しかし、実際のほとんどは、「弱者の戦略」を使うことになります。
「強者の戦略」を使えるのは、ごく僅かです。しかし、誤って本来は「弱者の戦略」なのに、「強者の戦略」を取ることを「狂者の戦略」といい、コテンパンにやられます。
設楽原の戦いではどうであったか
設楽原という「狭い局所」において、「互いに刀や槍」をメインに戦ったわけです。
確かに、「織田信長と徳川家康の連合軍」は「3000丁の鉄砲」を準備して「三段撃ち」を行ったという逸話もありますが、その「武器効率」がどの程度の物で、バッタバッタと武田軍を打ち倒したのかは不明です。
なにせ、あの「狭く」「近い」両軍の距離です。あっという間に両軍入り乱れての「乱戦」になると思います。
確かに1000丁ごとの鉄砲一斉三段射撃で、武田方は、激しく戦意を喪失し、馬は音に敏感なので戦場は大混乱に陥ったかもしれませんが、その主力は、両陣営ともに主力は足軽などの歩兵だったのではないかと思います。
必勝の法則 「三対一の法則」
戦争は、数が多い方が有利
という「三対一の法則」「攻撃三倍の法則」という考え方があります。これを応用して戦った事例としては、太平洋戦争中に絶対無敵の旧日本軍のゼロ戦1機に対して、アメリカ軍は常に3機で戦い損失を免れたというもの。
つまり、設楽原の戦いでは、狭い谷間の局地という戦場で、2.5倍~3倍もの兵力を準備していた「織田信長と徳川家康の連合軍」が初めから有利な戦況にあったのではないかと考えました。
その結果が以下になります
真田信綱、馬場信春、山県昌景、内藤昌秀、原昌胤、真田昌輝などの武田家の重鎮が討死するほどの大損害を出したのです。
多勢に無勢
ということですね。
この戦いでの戦死者数ですが、当時の資料などは残っていないそうで、これも諸説ありますがいろいろなホームページが引っ張ってきますと
- 「織田信長と徳川家康の連合軍」:38,000のうち、6,000人戦死→23,000煮人生き残り
- 「武田軍」:武田軍15,000のうち、10,000人戦死→5,000人生き残り
というところでしょうか。この際の正確な死傷者数はあまり関係ないですが、「ランチェスター法則の第一法則」で計算するのであれば、両軍の人数を引き算すると、「織田信長と徳川家康の連合軍」は「23,000人」生き残ったということになります。
実際、武田軍を全滅させて人数を「0」にすることはあり得ませんので、生き残ったのは「23,000人」というのは、妥当な数字だと考えます。
気付き
しかし、「織田信長と徳川家康の連合軍」は、「馬防柵」を設置しています。
この事実から、武田の騎馬軍団に対する脅威認識はあったでしょう。そして、武田軍団自体も、騎馬軍団を控えさせていたのかもしれません。
しかし、両陣営の「この距離と狭さ」です。武田側からもこの「馬防柵」が確認できた思います。そこで、武田軍は直前で「馬を捨てて」、徒歩での白兵戦という戦略を取ったことが、
武田方の戦略的ミスチョイス
になり、惨敗したのではないでしょうか。戦場の選択を間違えたことが致命的でしたね。
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