基本情報
形態:丘城
城の整備:駐車場(現在、城域で駐車はできません)
主郭まで徒歩20分ぐらい 送迎バスあります
所要時間:2時間
訪問日:2016年10月
駐車場 アクセス
なかなか来られないが、超有名な廃城がこの原城。島原の乱で、あまりにも有名ですが、登城するまで、「重税に苦しんだ農民3万人が一揆を起こし、4か月間、籠城した」程度のイメージだったので「古い砦を改修した小城」だと思っていました。三国志で言えば、「麦城」みたいな。
城域に入る
本丸大手門付近
が、しかし!!イメージが覆りました
この場所は、大手の手前になります。大きな岩石によって石垣が作られています。本格的です。ちなみに、この石垣の作り方が謎です。奥と手前は明らかに作り方が違う。城割後に積み直した??
ま~城割具合が凄いですね。土の高さまであったはずです。
本丸大手門の内側
ここがみどころですよ
枡形!!
この大手門のところは、しかっかりとした枡形が形成されています。城門の楚石もあるので、だいたい想像ができますね。
主郭手前の門。ここにも折れがあります。この辺りでは、これほどの仕組みは珍しいのではないでしょうか。やはり、当時の最先端だったような気がします。
本丸を覆う石垣群
城割後の石垣がまとめられている
至るところに、城壁の岩が並べられています。城割の残骸なのでしょう。これらは、その後の発掘調査などで出土したものなのでしょう。
いろんな石垣の組み方
気づき
城割にあい、島原城建設に転用されたというものの、まだまだ石垣がしっかり残っており、見どころ満載です。また、どうも
「重税に苦しんだ農民が一揆を起こし籠城した」
という単純なものではなく
「キリスト教の改宗を拒んだ農民」
「旧有馬家の浪人」
「旧小西家の浪人」
など、武士が多く含まれており、組織的な抵抗だった様子。宗教絡みや旧勢力による「内乱」ということみたいです。ここに来るまで知りませんでしたね。
阿蘇NO.4火砕流はここまでやってきた
ここがみどころですよ
島城跡は、島原半島世界ジオパークにも含まれております。どのような地質なのかと申しますと
この原城がある場所は、島原半島でも非常に珍しい場所です。上記の地図にもあるように、ピンクの地質で表示されていますが、ここは火砕流帯のシラス台地なのです。そのために、原城の縄張りは、どこか「南九州型城郭」に似ているところもあります。
では、その火砕流はどこからやってきたかと申しますと
この9万年前の阿蘇の大噴火で、この原城いった今で火砕流がたどり着いたというわけです。そのインパクトは大きいです。「島原大変肥後迷惑」の逆パターンですね。
実際の境目が、ここに当たります。
またかつて、江戸時代は砂浜が広がっていたとのことです。古地図でも砂浜が描かれております。今は、水位の上昇で消滅した模様。ちなみに、天草四郎の「海渡り」の伝説がありますが、これにはタネがあります。
春先から初夏になると潮の関係で、砂浜が浮き出るスポットがあるらしいのです。そこを天草四郎は巧みに歩いて見せたので、「海渡り」の伝説が生まれたのではないでしょうか
ここも合わせて訪問したい
有馬キリシタン遺産記念館
今回、この城の本当のところは、意識的に掲載しませんでした。「島原の乱」の結末は、非常に残虐的なものでした。「島原の乱」後、この土地からは「人が居なくなった」とのことです。
この表現は、そんなにあるものではありません。原城に登城前に、事前知識がある方がさらに良いと思います。上記の有馬キリシタン遺産記念館に訪問することを強くおススメします。
・有馬氏の旧居城 続日本100名城
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