山城ACTレベル:初級 ★☆☆
山城Wレベル:W1 ★☆☆

この山城の魅力|3つのポイント
① 体験価値(ウェルネス)
駐車場から短時間で本丸周辺へ上がれる近世城郭で、石垣や空堀をのんびり歩きながら「宇土半島の玄関口」に立っている感覚を味わえます。足腰への負担も少なく、中高年でもゆったり散策できます。
② 遺構の固有性
本丸周辺には加藤清正期とされる高石垣が残り、折れ角度の鋭さや勾配に熊本城との共通性が感じられます。段郭や空堀もきれいに残っており、近世城郭のエッセンスをコンパクトに観察できます。
③ 景観・地形の固有性
段丘堆積層の台地上に築かれた平山城で、宇土古城とペアで「鶴が翼を広げたような構造」とも評される立地が特徴です。天草方面へのルートを押さえる要地であり、台地端からは宇土半島の地形と海への開けを体感できます。
現地レポート|ルートと見どころ
本丸周辺 清正時代の石垣


現在のこれらの石垣は、小西行長亡きあと、加藤清正が隠居城として築いたとあります。
だから、この感じは熊本城に似ている気もしますね。なるほど。




傾斜具合が熊本城っぽい!?

天草五人衆との関り
ここまで、いろいろ考えてみましたが、この宇土という場所は、かなり重要な戦略的ポイントだということが分かります。ここは、当時、「最新で最先端であった天草諸島の入口」であるわけです。

天草には、「天草五人衆」という
天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏
がそれぞれ統治しており、文化面でも優れていたと考えられます。
行長が宇土新城を築いた1589年は、同時に「天草国人一揆」が起きた年でもあり、多くの切支丹を抱える天草側が、同じキリシタン大名である行長に反旗を翻したという、複雑な構図が見えてきます。
宗教的には同志でありながら、政治的には対立するという「ねじれ」を抱えた一年で、行長にとっては非常に難しい領国経営となったことが想像されます。
山城ACTレベルと山城Wレベル
山城ACTレベル:初級 ★☆☆
本丸のある台地は数十メートル級の丘陵で、駐車場から本丸周辺を一周しても約1km前後です。累積標高差は50m未満のゆるやかなアップダウンで、遊歩道も整備されているため、山城ビギナーや中高年の方でも落ち着いて歩きやすい負荷感です。
山城Wレベル:W1 ★☆☆
清正流の高石垣や空堀、段郭がコンパクトな範囲にまとまっており、「熊本城につながる石垣の感覚」を短時間で味わえるのが特徴です。行程が短く身体への負担も小さいため、散策感覚で「近世城郭の空気」にふれてみたい方に向いたW1(★☆☆)レベルの山城としました。
主なルート
・宇土城跡公園駐車場 → 本丸周辺の石垣・空堀 → 段郭を周回して駐車場へ戻る周遊コース
累積標高差と所要時間
累積標高差:駐車場から本丸周辺までで体感50m未満 / 所要時間:往復+散策でおおよそ30分〜1時間(撮影・説明板を読みながら歩くペース)
この城の概要
豊臣秀吉の九州平定後、小西行長は肥後南半国の領主となり、天正16年(1588年)頃に中世宇土古城の東側、段丘上の小丘に新たな居城として宇土城(近世宇土城)を築いたとされます。
のちに関ヶ原合戦後は加藤清正の支配下となり、一時は隠居城としての整備も行われましたが、近世初頭には廃城となり、現在は宇土古城とあわせて国指定史跡「宇土城跡」として保存されています。
出典・参照元:宇土市観光物産協会・宇土市教育委員会の解説板、文化庁「宇土城跡」説明資料 ほか。
地形・地質のポイント

この二つの「宇土城」は、地質は違うようです。宇土古城がある場所は、安山岩・玄武岩層のようですが、宇土(新)城がある場所は、段丘堆積層。城の造りからすると、「それって逆じゃないのか」と思いました。
近世宇土城の石垣に使われた石材は、城のすぐ西側に広がる安山岩層(地質図の黄色部分)から運ばれた可能性が高いと考えられます。段丘堆積層は石材として適さないためです。

段丘堆積物層です。
宇土古城では、なぜダメなのか

① 中世的な山城から、近世城郭への転換期だった
宇土古城(西岡台)は、防御力が高い安山岩・玄武岩の台地上に築かれた、典型的な中世の丘城です。しかし、豊臣政権期の城づくりは、
- 城下町の形成
- 街道・港との結節
- 行政機能の集約
といった「都市としての役割」が最優先される時代へ移行していました。小西行長が求めたのは、「戦うための山城」ではなく「統治と都市経営の中心」となる城でした。
そのため、山上の宇土古城は構造的に合わなかった可能性があります。
② 小西行長は「都市づくり」を重視した大名だった
行長は堺の薬種商出身で、貿易・物流・行政に強いタイプの武将でした。
そのため、城もまた「山ではなく、町と一体化した城」である必要がありました。
宇土新城(段丘上)は、
- 平坦地で城下町を整備しやすい
- 海(有明海)との連携が良い
- 街道支配がしやすい
という利点がありました。つまり、行長の政治思想・都市観に合うのは、完全に「新城側」でした。
③ キリシタン大名としての宗教政策が影響した可能性
行長が治めていた頃、天草・宇土周辺は日本でも最大規模のキリシタン地域でした。
- 人口:約3万
- 信徒:約2万3千
- 神父:約60人
- 教会・礼拝所:30ヶ所以上
行長は熱心なキリシタン大名で、宗教的空間の整理(旧仏教施設の移転・整理など)を進めたとみられます。
宇土新城は、
行政+宗教(キリシタン)+都市計画
の中心拠点として構想されていた可能性が高く、山上の宇土古城では対応できませんでした。
④ 地質から見ても「宇土古城は都市城に向かない」
宇土古城(旧城)
→ 安山岩・玄武岩の堅固な台地
→ 防御には最適だが、城下町形成には不向き
宇土新城(新城)
→ 段丘堆積層の平坦地
→ 石垣には不利だが、街づくりには圧倒的に有利
しかも、新城の西側には石材に適した安山岩層(地質図の黄色部分)が近接しており、石材調達は十分可能でした。つまり行長は、
地形よりも、立地(交通・都市化)を優先した。
ここに「近世への価値観シフト」が明確に見えます。
まとめ
小西行長が宇土古城ではなく宇土新城を選んだ理由は、単なる城郭の移転ではありません。
- 中世 → 近世への城郭思想の転換
- 行政・貿易を見据えた都市計画
- キリシタン領国の中心づくり
- 地質と立地の二つを踏まえた合理的判断
これらが重なり、その象徴こそが、「宇土新城」だったと言えるのではないでしょうか。

アクセス・駐車場
トイレ:城跡公園内または周辺施設のトイレを利用。
自家用車:松橋ICから約20分/宇土市街地から約10分。
駐車場:宇土城跡公園に無料駐車場あり。
公共交通:JR宇土駅からタクシーで約10分。バスは本数が少ないため要確認。
まとめ
宇土古城は、中世の館城が穏やかな丘陵上に残り、段郭や空堀、本丸の柱跡をたどりながら「山上に政治があった時代」の姿を静かに感じられる場所です。
これに対し、1589年に小西行長が築いた宇土新城は、段丘上に城下町と館機能をまとめた近世的な城郭へ転換しました。
現在、本丸まわりに残る高石垣は行長期のものではなく、その後に加藤清正が隠居城として改修した際のもので、反りや折れのある造りは熊本城にも通じる清正流の特徴です。
中世の山上城(宇土古城) と 近世の段丘城(宇土新城) を合わせて歩くと、宇土の地形・地質・宗教・都市計画が時代とともにどう変化したのかが一望できます。段差や堀の縁に気をつけながら、それぞれの城が持つ異なる時代のリズムをゆっくり味わってみてください。
免責
本記事は個人的な体験・調査および公開資料に基づくものであり、歴史的事実や地質・効果などを断定するものではありません。訪問の際は最新情報をご確認のうえ、体調や安全に十分ご配慮ください。






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