
この城の概要
観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町・観音寺山一帯に築かれた山城で、近江守護・佐々木六角氏の本城として整備された戦国期最大級の山城です。
標高約432mの山頂から南山麓まで郭が鱗状に広がり、巨石を用いた石垣や屋敷状の曲輪群をともなう大城郭で、中世五大山城の一つに数えられ、日本100名城(No.52)にも選定されています。
~参考~ 日本五大山城
1.春日山城(新潟県)
2.観音寺城(滋賀県)
3.小谷城(滋賀県)
4.月山富田城(島根県)
5.七尾城(石川県)
実際に訪問してみて、感じた疑問点
観音寺城の岩石について


観音寺城を歩いてみて、まず圧倒されるのが「石」の量でした。山の斜面に沿って組まれた石垣、段状の曲輪を縁取る石列、道端に転がる巨岩。
どこを見ても岩だらけで、まるで山そのものが巨大な遺跡になっているような感覚になります。

地質図を眺めてみると、観音寺城・安土城・小谷城のあたりには共通して「流紋岩」とされる岩石が広く分布していることがわかります。観音寺城の登城口となる観音正寺の裏側にも、同じタイプの岩が露出していて、そこには数多くの仏さまが刻まれていました。

そうなると気になってくるのは、
「この岩は、もともとどんな場所で生まれて、どうやって今の形になったのか?」
という点です。山城の石垣としては当たり前の存在なのですが、改めて眺めていると、その素性が知りたくてたまらなくなってきます。そこで、地質図や解説書を少し丁寧に読み直してみました。

そこで、ちょっと調べました
滋賀県「県の石」である「湖東流紋岩」
調べてみると、観音寺城の周辺に広く分布している岩石は、「湖東流紋岩」と呼ばれるグループに含まれることがわかります。滋賀県が定める「県の石」にも選ばれている、湖東地域を象徴する岩石です。
流紋岩とは、マグマが地表や地表近くで冷え固まってできた火山岩の一種で、一般的には白〜灰色、あるいはピンクがかった色合いをしており、筋状の模様(流理構造)が見られることもあります。(=ざっくり言うと、「冷え方と成分の関係で模様が出るタイプの火山岩」です)

ところが、観音寺城で実際に目にする岩は、教科書に出てくるような「縞模様くっきりの流紋岩」という感じとは少し違っていました。むしろ、灰色から薄茶色の塊状の岩が多く、ときには花崗岩にも似た印象さえ受けます。
「これも本当に流紋岩なのか?」
最初はそんな違和感があったのですが、そこで出てきたのが「湖東流紋岩」という、少し幅を持たせた呼び方でした。

「湖東流紋岩」というブランド
湖東流紋岩という名前の下には、純粋な流紋岩質の溶岩だけでなく、火砕流が冷え固まってできた溶結凝灰岩のような岩石や、見た目が花崗岩に近いタイプまで、性質の似た岩石が含まれます。
いずれも、過去の大きな火山活動に由来する噴出物が関わっている点が共通している、と紹介されています。
こうした説明を踏まえて改めて観音寺城の石垣や仏像の刻まれた岩を眺めると、「教科書どおりの流紋岩」ではなくても、同じ火山活動の系譜にある岩なのだろう、というイメージが少しずつつかめてきます。
九州のカルデラ地形のような事例が有名ですが、湖東地域の地質をたどっていくと、近江の大地の下にも、かつての大規模な火山活動の記憶が刻まれていることが見えてきます。


湖東コールドロン(陥没盆地)って何!?

地質図を眺めていると、湖東地域には円を描くような岩石の分布が見えてきます。
色の境界に沿って円を重ねていくと、まるで大きな輪がいくつも重なっているような形になります。

参考ページ:発見!地球号~滋賀の大地~
この円の構造は、過去の大規模な火山活動によって地面が大きく落ち込んだ「コールドロン(陥没盆地)」という地形として説明されることがあります。
今から7000万年前に超火山により大爆発した際に出来た「コールドロン(陥没盆地)」がこの3つの輪です。3回程度の大爆発があったということを意味しています。
その外枠実線に「琵琶湖コールドロン(陥没盆地)」で花崗岩(濃いピンク)群が分布しています。湖東地域では、いくつかの陥没構造が想定されており、その内部に広がっているのが「湖東流紋岩」と呼ばれる岩石です。

規模は、阿蘇カルデラや姶良カルデラに匹敵しますね!
ここで登場する「湖東コールドロン(湖東カルデラ)」について、イメージしやすいように整理すると、だいたい次のような感じです。
湖東コールドロン(湖東カルデラ)とは
- コールドロン(caldera)は、火山活動のあとに火山の中心部が沈み込んでできた、盆地状の大きな地形のこと。
- 湖東カルデラは、琵琶湖の東側一帯に想定されている陥没構造で、過去の大きな火山活動に関連した地形として説明される。
- その内部には、流紋岩や溶結凝灰岩などの火山岩が広く分布し、「湖東流紋岩」という名前でまとめて呼ばれることがある。
近江の山城を歩いていると、どうしても「中世の戦い」や「城主の物語」に意識が向きますが、その足元には、はるか昔の地球レベルのドラマが眠っている。。。
そんなスケール感を少し頭の片隅に置いておくと、同じ石垣を見ても、どこか違う表情に見えてくる気がします。
溶結凝灰岩は、一般的には、高温の火砕流が厚く堆積し、その後冷え固まることでできた岩石と説明されます。湖東流紋岩の一部も、こうしたタイプの岩石として紹介されており、とても硬く、風化しにくい性質を持つものが多いとされます。
この「硬い岩盤」は、山城づくりにとっては大きな味方です。石垣の石材を確保しやすいだけでなく、曲輪や虎口を縁取る巨岩としても利用できるからです。
岐阜城のようにチャート主体の山と、安土・観音寺城のように流紋岩・溶結凝灰岩主体の山とでは、城づくりの「素材」としての感触も違ったはずです。
信長が安土の地を選んだ背景には、こうした「岩の性格」もどこかで関係していたのかもしれない。



もちろんこれはあくまで「想像の域」を出ませんが、そうした視点で山の斜面や石垣を眺めていると、山城歩きが少し立体的になります。
「山城の下にカルデラがある」
そう思いながら石段を登ってみると、何度も見たはずの石垣や曲輪が、また違った物語を語り始めてくれるように感じます。
信長さんもチャート岩石主体の岐阜城よりも、溶結凝灰岩主体の安土地方の方が山城も造り甲斐があったでしょうね!

スッキリ!
参考文献
地質ニュース編集委員会
「地名と地学 安土と安土城」
『地質ニュース』第581号、2003年1月
杉井完治
『琵琶湖周辺の花崗岩を歩いて40年』
地学教育と科学運動 第86号、2021年6月
西川一雄 ほか
「湖東流紋岩およびその火成活動について」
『岩石鉱物鉱床学会誌』第77巻、pp.51–64、1983年 など










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