基本情報
形態:海城(日本三大水城)
所要時間:30分
訪問日:2020.06
駐車場 アクセス
日本三大水城
愛媛県の今治城
香川県の高松城
大分県の中津城
また、UPします
「藤堂高虎」という武将
管理人にとって、この「藤堂高虎」という人物は、天正13年(1585)の紀州攻めの際、途中、故郷の檀寺を焼き払った「仏敵」であり、「仇敵」でもあるのです。
このブログでは、ほとんど「武将」「人物像」には、触れることはないのですが、こと城造りにおいては、加藤清正や黒田官兵衛と並び「戦国三大築城名人」とされるほどの実力。
築城のプロ
そして、藤堂高虎が築城した城を実際に見てみて、共通して感じることがあります。それは、
「戦わずして勝つ」
の戦略です。本来は、攻め手の戦略かもしれませんが、守り手としての「戦わずして勝つ」。
他にも、
「攻撃は最大の防御なり」を勝手に転じて、「防御は最大の攻撃なり(管理人造語)」
「先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ」つまり「先に負けない備えをしておいてから、敵がミスをしたり弱みを見せるのを待ってから攻撃せよ」という部分。
中国最古の兵書『孫子』の兵法をかなり勉強していたのではないかと感じます。ポイントは2点。
「戦う前に戦意喪失を導く」
「勝つのではなく、負けないようにする」
特に、「勝つ」という行為は、いろんな選択肢がありますし、「勝つ」ためには多大な犠牲を払うこともあります。
逆に「負けない」というのは「状態」でもあり、これを維持すれば、最低限の犠牲でいずれ勝機が見えるのではないかということだと思います。
そのために、藤堂高虎は
①非常に高い石垣
②幅が広い水堀
③凝った虎口 鉄城門
④層塔型天守
これらを備えた城造りに拘ったのではないかと考えます。これは、実際に城を訪問している中で、とても感じる点です。
個人的には、「藤堂高虎」が造った城こそが、攻守を備えた「天下の名城」だと思います。
即「戦意喪失」
そんな藤堂高虎が造った城も、現在では安全に登城することができます。登城する前から「今回は、いったいどんな仕掛けがあるのか」と管理人としても
ワクワクする
そんな期待を持たせてくれる城でもあります。ぜひ、楽しんで訪城してみてください。
城域に入る
今治城(愛媛県)
慶長5年(1600)に伊予半国領主として20万石を領したのちに、築城。海水が引かれた広大な堀や、城内の港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城。
鉄御門
鏡石が迎えてくれます。いろんな岩石があり、カラフルでキレイです。特に、「大理石」が高級感を演出していますね。鉄御門は、門の表面に、黒鉄がびっちり張られており、火矢や鉄砲を跳ね返します。しかも、門は側面についているため、丸太などの突破も防ぐことができるでしょう。
なによりも、三方の銃眼からの狙い撃ちなので、近づけないと思います。
城の内部は、あんまり複雑ではなく単純。この縄張りは、他の城でも感じることができ、堀と虎口と石垣の高さに集中している。
層塔型天守
これまで、天守閣というと、館の上に望楼を載せた「望楼型」が主流でしたが、「層塔型天守」はこの今治城から始まったとされています。望楼型よりも建築効率が高いとのこと。
巨大水堀 高い石垣
日本三大水城に相応しいこの幅。城への入口は二ケ所だけなので、これを焼かれるともう城への侵入は不可能。攻め手がモタモタしているうちに、援軍が到着するという手はずのはず。犬走とよばれる細長い平地をもうけ、地盤を補強し、石垣を組んでいる。
赤木城(三重県)
藤堂高虎は、天正13年(1585)の紀州攻め後に、三重県北山に入りました。天正15年(1587)の北山一揆が勃発するなど、治安が不安定な土地だったようです。
そこで、「威嚇」と「象徴」を兼ねて、武士だけではなく、民を相手に当時、最先端の野面積み山城をこの山奥に造りました。
虎口
元の巨大砂岩の上に、さらに石垣をオン。威圧感がスゴイです。
門跡
多少の修復が入っているため、非常にキレイですが、当時の雰囲気を見事に再現されています。ここは、攻め入りにくい。
どちらにせよ、こんな山奥にかくも威圧的な山城が出来たわけですから、一揆衆にとってはかなりの脅威だったと思います。さすがに
戦意喪失
です。
大洲城(愛媛)
ご存じ、「泊まれるお城」の「大洲城キャッスルステイ」。 天守と、取り壊しを免れた国の重要文化財の2つの櫓を貸し切りにして宿泊できるとのこと。 この城に泊まれるのは1日1組で、料金は1人55万円(税込み)です。
殿様体験
そんな大洲城ですが、こちらも藤堂高虎が統治しています。文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。
本来は、「内堀」「外堀」を備え、本丸・二の丸・三の丸と「一二三段」に曲輪を配した典型的な平山城です。一二三段と聞くだけで、
戦意喪失
実際に、城域に入ってもなかなか天守閣に着かない。距離が長い。
宇和島城(愛媛)
藤堂高虎が文禄4年(1595年) に 宇和郡7万石の城主として封ぜられました。かつては大半が海に面し、水堀も築かれていましたが、現在は埋め立てられているため、見ることはできません。
藩老桑折氏武家長屋門
この階段付近の石垣も強固に積まれていますが、ヤバいのはその上です。
この写真の8割は岩石です。ものすごい岩石量。見ただけで
戦意喪失
この城で言われているはその「外郭」の形。いびつな五角形をしていることです。通常の平城は、だいたい四角形ですが、この城のいびつな五角形は寄せ手の「常識」を狂わせ、隙を作ることが狙いと言われているようです。
伊賀上野城(三重県)
慶長13年(1608)8月、江戸幕府により藤堂高虎は、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与えられ国替えを行いました。そして、大坂に対峙するための城として築きました。
慶長16年(1611)、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としたとのこと。
他の方もおっしゃってますが、ここの城は、もっとこの高石垣の見せ方を考えた方が良いですね。撮影や見学に気が邪魔して、どこが撮影のベストポジションか分かりづらい。非常に勿体ない。
この城も、幅の広い水堀と高さ約 30 メートルという日本一の高さを誇る石垣。おそらく水面下にも石垣は続くはずで、実際の高さはもっとスゴイことになるでしょう。この水堀と石垣で
戦意喪失
篠山城(兵庫県)
写真を撮ることを失念したのですが、この篠山城は、かなりの「狂犬」だと思います。
三つの馬出し
現地案内図にもあるように、平城でも三つもの「角馬出し」を持ちます。馬出しと言えば「武田家」を思い浮かべますが、この「角馬出し」は「北条家」に多い馬出し種類。
1600年以降に造られたということは、城築技術も極まっている頃でしょうが、この「三つの馬出し」がある時点で、打って出ることに主軸を置いているように見える一方、幅の広い外堀を備え、たとえ大手門を越えたとしても
この内堀と高い石垣に進軍を阻まれます。この場所を容易に越えることはできない。
そして、次にあるのが「表門+中門+鉄門」の三重門。表には「角馬出し」を備える日本最高レベルの攻守が備わった鉄壁の防備。この事実を聞いただけで、管理人は
戦意喪失
です。(中門って意外と珍しいかも)。全く進軍することができません。
中に入ると、大書院とのギャップにさらに驚きます。やはり今治城と同様にシンプル設計。しかし、この篠山城が藤堂高虎流築城術の一つの到達点だと感じました。
気付き
藤堂高虎は、主君を七回もコロコロ変え、転職が当たり前の現代ならまだしも、当時は、非常に冷たい目で見られたことでしょう。現代は、派遣社員にとってはごく当たり前の働き方ですが、我々と同じで結果を出すことだけが「存在意義」そのものだったと思います。
しかし、現代にも通じる大事なことは、領主を転々としながらのタタキ上げが最も効果的だと証明しているようにも感じました。日々研鑽。その結果が、これらの素晴らしい「城」を造ったように思います。
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