岡山

鬼ノ城①(岡山県総社市)桃太郎伝説・温羅・百済と古代山城の背景

鬼退治といえば「桃太郎伝説」

それまで、たくさんの中世山城に登って来ましたが、だいたい名前はその地名を取ったものが多く、純和風的で気分的に安心感があるものでした。しかし、ここ「岡山県」にある「鬼ノ城」は、聞くだけで

山城Q
山城Q

なにそれ!??ヤバい??

と感じざるを得ないネーミング。しかも、かなり大きく広大だということも分かる。なぜ「鬼ノ城」というのか??岡山県といえば、

桃太郎伝説(鬼退治)に関するイメージ

誰もが知る「桃太郎伝説」。犬、猿、キジ。。。鬼を退治する。。。いったいどのような関係があるのか。

しかし、ここに来てみてビックリなのは、「歴史と自然の野外博物館」の基本理念に基づき、鬼城山ビジターセンターという施設が作られており、事前情報をしっかりと学ぶことが出来る。

そこで、知ったのが

「神籠石系山城」
「朝鮮式山城」
「中国式山城」

というワード。(現代では、朝鮮式山城は史書記載山城(あるいは天智紀山城)、神籠石系山城は史書非記載山城と呼ぶようにしています)

山城Q
山城Q

何これ??遥か昔の遺構??

この出会いのために、鬼ノ城他古代山城について非常に興味を持ち、個人的に詳しく調べていくことで、すっかり「沼」にハマったのでした。

古代山城の分布

👉古代山城に関しての詳細はこちら

鬼城山ビジターセンターの展示(古代山城の分布)
鬼城山ビジターセンター 改変

瀬戸内のこの岡山県と香川県の両サイド。また、最近見つかった広島県府中市にある茨城、常城も含めるかなり強固な防御態勢を取りました。

なぜなのか、当然、ヤマト王都防衛もありますが、それは鬼ノ城周辺は、

山城Q
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福岡「大宰府」に匹敵する拠点

だったからという説があります。

「大宰」と「総領」って!?

7世紀後半天武・持統朝には、吉備・周防・伊予・筑紫などに数ヶ国を管掌する大宰・総領(惣領)という官職が置かれていました。

大宰・総領(惣領)に関する説明図(ビジターセンター展示)
鬼城山ビジターセンター 説明図 を改変

この大宰・総領(惣領)は、基本的に違いがないとされており、立場的には「行政官」ですが、軍事機能も併せ持っていたようです。この点を踏まえ、拠点と山城は、

吉備大宰・・・⑤鬼ノ城
周防総領・・・⑧石城山城
伊予総領・・・⑫永納山城

を中心にそれぞれ管掌していたいと考えられております。古代山城の立地とぴったり一致します。

鬼ノ城版水城

福岡には大宰府がありますが、ここ鬼ノ城周辺にも大宰府並みの「政庁」があったのではないかと言われております。その場所は、まだ見つかっておりません。

しかし、鬼ノ城から眼下の平野を見下ろすと、ある場所に目が留まります。

鬼ノ城から見下ろした平野の眺め
平野の中で目が留まった地点(説明用の写真)

この部分。両山裾が狭くなる場所で、「血吸川」という川が南流する先で急に流れを変え、土手に阻まれている箇所があります。

字名は「池の下」。最近の研究では、この部分が「福岡県大宰府の水城」に相当するとのこと。
水城とは、福岡県にある福岡平野と筑紫平野をつなぐ長大な土塁を伴う水堀のことです。

総社市埋蔵文化財学習の館(展示)
総社市埋蔵文化財学習の館

2000年頃に行われたトレンチ調査によって、幅21mに渡り版築で築かれたことが判明。また、中央前面の小字は「御門」、背面は「浜田」「池田」。そして、川の名前は「血吸川=治水川??」

総社市埋蔵文化財学習の館(模型・解説展示)
総社市埋蔵文化財学習の館

この「血吸川」の流れを、中央から端に変えた痕跡も見つかっているとのこと。

山城Q
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確かに不自然

では、 水堀は下手南側にあったのかどうかですが、 どうも山手北側にあった可能性が高いとのこと。この模型で見ても、その方が水が溜まりやすいようにも思えます。

鬼ノ城周辺の地形模型(加筆)
総社市埋蔵文化財学習の館 加筆

これが、鬼ノ城の外郭線と考えられております。

百済国との関係は?

ちなみに、この鬼ノ城の隣の兵庫県たつの市には、同じく古代山城「城山城きのやまのき」があり、麓には「馬立古墳群」という大規模古墳群があります。

城山城(きのやまのき)に関する写真
馬立古墳群の現地写真
馬立古墳群(6号墳)
6号墳
馬立古墳群(17号墳)
17号墳

ここには、大小30基の古墳が群集しています。これらの古墳は6世紀~7世紀に作られたものだそうで、中でも姥塚古墳は高さ6m、直径18.5mの円墳で横穴式石室としては、大きなものです。

この古墳の特色は玄室の構造で、穹窿(きゅうりゅう)形と言われている天井が高い百済(韓国)の様式で、城の麓の斜面にへばり付くように作らています。

また、岡山県南部の児島半島、玉野市と倉敷市の境に「王子が岳」というとても特徴的な大岩がある場所があります。

王子が岳の巨岩(現地写真)
王子が岳の景観(現地写真)

その地名の由来にも、「百済」が登場します。現地の案内看板には、

王子が岳の名前の由来は、昔ここに王子が住んでいたという伝承に由来すると言われています。王子は百済姫の子どもで、柴坂の王子,坂手の王子,筈割の王子,峰の王子,日の王子,錫投げ王子,谷の王子,瓶割王子の8人

とのことです。

正直、岡山県内でここまで「百済」という名前が出てくるとは思いませんでした。

管理人が高校生の頃に学んだことは、確か朝鮮半島に「高句麗・新羅・百済・任那」という国が存在し、朝鮮半島で「白村江の戦い」というのがあって、倭が唐・新羅連合軍に大敗した程度の知識。

その時の日本史の先生が「はくすきのえ はくすきのえ」としきりに言っていたのを覚えています。

百済と倭の関係

百済と倭はどのような関係だったのでしょうか。昨日今日の友という感じではないように思いました。

そこで、いろいろ調べてみました。しかし「晋書倭人伝』にある邪馬台国による266年朝貢以降、「倭の五王」が現れるまでの情報が乏しく、「空白の四世紀」というものが存在しています。

しかし、高句麗第19代の王である「好太王」の業績を称えた「好太王碑文」では、わずかに伺いしれる情報もあります。

好太王碑文の拓本(展示)
熊本県立装飾古墳館内 好太王碑文拓本

この拓本には

391年 倭は百済・新羅・伽羅を抑える
399年 百済と倭が同盟
400年 逆に、高句麗が任那加羅を攻撃
404年 倭軍が帯方郡を越えて高句麗を攻撃

などが書かれている。

この碑文情報が事実なら、この時代のヤマト王権はえらく好戦的で、積極的に朝鮮半島に関わっていたようです。つまり、この「倭の五王」時期に王権として確立したようです。つまり百済とは、

山城Q
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西暦399年からのお付き合い

となると、その頃から大陸との交流は盛んに行われ、この吉備地方にも拠点があったのかもしれません。

そんな中、個人的に強い衝撃を受けたのは、岡山県古代吉備文化財センターで展示されていたこの土器群

岡山県古代吉備文化財センターの土器群(展示)

鬼ノ城ふもとにある「弥生時代の岡山市 高塚遺跡」や、近場の「赤磐市 斎富遺跡」「倉敷市 菅生小学校裏山遺跡」などでは、

新羅・百済・伽耶系土器(出土品の展示)
新羅・百済・伽耶系土器(出土品の展示)

ちょうど、5世紀(西暦401年~西暦500年)の頃、新羅・百済・伽耶製土器が多数出土しているということは、この時期には既に多くの新羅・百済・伽耶出身者が

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吉備にめちゃ住んでいた

ということです。さらに、

660年 朝鮮半島では計17万人の「唐・新羅連合軍」侵攻により同盟国の百済 滅亡
    百済国王・皇太子以下1万2千人が唐の都 洛陽へ連行
    日本へは多くの貴族・官人・軍人が「帰化人」としてヤマト王権へ組み込まれる

ということは、大量の難民が倭に流れてきたと思います。

時代はくだり奈良時代(710年頃〜794年)に書かれた「備中国大税負死亡人帳」と言う資料から算出すれば、民族的なことを書くのは非常に気を使いますが、

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人口の4割が渡来人

を占めるという情報もあり、瀬戸内や畿内にどれだけ存在していたのか、もはや想像もつきません。

渡来人がもたらしたもの

また、この渡来人がもたらした技術として、大きなものの一つに

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製鉄技術

があります。この鬼ノ城周辺にある

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日本最古の製鉄遺跡

と言われている6世紀の製鉄炉が確認された「千引カナクロ谷製鉄遺跡」の存在。

今は、鬼ノ城GCの中にある調整池の底に眠っているとのことですが、これらは鉄鉱石から積極的な鉄生産を行っており、これこそが権力の証になります。

総社市埋蔵文化財学習の館(展示:製鉄関連)
総社市埋蔵文化財学習の館
総社市埋蔵文化財学習の館(展示:製鉄関連)
総社市埋蔵文化財学習の館

精錬炉4基、炭釜3基を使っていた。

古代鬼 温羅とは

温羅(うら)に関する展示・解説

温羅とは、いわゆるファンタジー作品に登場するような「鬼」ではなく、百済系の王族、あるいは王族に近い立場にあった人物であった可能性が高いと考えられます。

問題は、その活動時期です。

私見では、温羅その人の実年代を特定するというよりも、温羅伝説が成立した背景となる時代として、百済と倭との交流がとくに深まった 4〜5世紀頃 を想定するのが、考古学的状況とも大きく矛盾しないように思われます。

この時期、百済からは製鉄技術をはじめとする先進的な技術や人材が列島にもたらされており、温羅もそうした交流の中で吉備に渡来した百済系有力者の記憶が、後世、神話的に再構成された存在と捉えることができるでしょう。

造山古墳(近隣の大規模古墳)

近隣には、国内第4位の規模を誇り、登ることができる前方後円墳としては最大級とされる造山古墳 が存在します。この古墳は、5世紀前半(西暦400年前半)に築かれたと考えられており、被葬者がヤマト王権と極めて強い関係を持っていたことを示しています。

この事実は、吉備が当時、ヤマト王権にとって無視できない重要な地域であったことを物語っています。

また、百済語において城や砦を指す語が「キ(ki)」に近い音で発音されていた可能性が指摘されています。

もし、もともと鬼ノ城の地に「城(キ)」と呼ばれる施設が存在していたとすれば、それが後世、温羅鬼伝説と重なり合う中で、音の一致から「キ=鬼」と解釈され、「鬼ノ城」という名称が生まれたと考えることもできるでしょう。

犬 猿 雉の「犬」って?

犬・猿・雉に関するイメージ図

温羅の正体については、いろいろ分かりました。では、吉備津彦命(桃太郎モデル)陣営はどうであったのでしょうか。

吉備津彦命については、

吉備津神社のホームページなどに掲載されています。しかし、この神社に参拝するとある「政治家」の名前がやたらと目に入ります。日本人であれば、一度は耳にしたことがある超大物政治家です。それは、

山城Q
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犬養毅

犬養毅(いぬかい つよし)の紹介(画像)

犬養 毅(いぬかい つよし)1855年6月4日- 1932年5月15日 は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は木堂、子遠。元内閣総理大臣 五・一五事件で暗殺される。

まずは、参道入口階段に

吉備津神社の参道入口(階段)
参道入口付近の石碑(犬養毅の名が刻まれる)
山城Q
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どういうこと?

名前がしっかりと刻まれている。そして、他にも何やら3本の石柱がありますが、

吉備津神社の石柱(犬養毅の名が刻まれる)
吉備津神社の石柱(裏面の刻字)

その裏には、「犬養毅」の名前が。そして、駐車場には

犬養毅の銅像(吉備津神社周辺)
山城Q
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銅像まで!

その詳細は、この案内板に書かれています。

案内板:犬養毅と吉備津神社の関係

遠祖 犬養建命は大吉備津彦命の随神なり

山城Q
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マヂですか。。。

この犬(に当たる人物)は、犬養毅の遠い祖先の「犬養建命」だということ。これには驚きました。この情報は、この吉備津神社に参拝している人のほとんどは知らないのではないでしょうか。

もっと知られても良い情報だと思います。そういえば、ちょっと思い出しました。確か、鬼ノ城の北門の正面には、

鬼ノ城の北門
鬼ノ城 北門

「犬墓山」という山があります。考え過ぎかもしれませんが、「犬養建命」に何か関係するのかどうか。実際に「犬養建命」が陣を張ったとか、戦死したとか。

気付き

鬼ノ城に興味を持つまで、古代の日本と朝鮮半島、特に吉備岡山地区が、ここまで関係があったことには非常に驚きました。こんなことは教科書では、詳しくは教えてはいただけません。

前述記載の通り、私が高校生の頃に学んだのは、朝鮮半島に「高句麗・新羅・百済・任那」という国が存在し、「白村江の戦い」というのがあって(当時の先生がハクスキノエと言っていたのを覚えています)、倭が唐・新羅連合軍に大敗した程度の知識でした。

しかし、ここまで調べてますと、大陸の先進技術が欲しいヤマト王権の狙いも透けては見えますが、これは国際交流という観点からみると、この時代は朝鮮半島との行き来や移住が非常に盛んであり、

とても多様性に富んだ

山城Q
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寛容な時代

だったように思えます。と。同時に、インバウンドや外国人観光客がどんどん日本にやってくる現代と

山城Q
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あまり変わらない

とも感じたのでした。その点、古代人の方がはるかに先行していたのかもしれません。

参考文献:
向井一雄氏 『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2016年)
村上幸雄氏・乗岡実氏 『鬼ノ城と大廻り小廻り』(吉備人出版、1999年) 
村上幸雄氏・葛原克人氏 『古代山城・鬼ノ城を歩く』(吉備人選書、2002年)
谷山雅彦氏『日本の遺跡42 鬼ノ城』(同成社 2011年)
聞き取り:総社市埋蔵文化財学習の館 学芸員

免責

本記事は、現地での観察メモをもとに整理し、筆者なりの解釈を加えた記録です。史実の正確性を保証するものではありません。また、整備状況・所要時間・交通手段・施設情報等は変更される可能性がありますので、訪問の際は必ず最新情報をご確認ください。

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