基本情報
形態:山城
史跡指定:国の指定史跡
標高:397m
城の整備:登山道あり
所要時間:2時間
訪問日:2014.08
縄張り図
鬼ノ城は、標高約400mの鬼山城の8~9合目に築かれた変形7角形の難攻不落の古代山城です。万里の長城のような石塁・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って巡る。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタール。
4つの門と6つの水門、角楼と呼ばれる突出部を備え、内部には倉庫や鍛冶工房や溜井などが発見されている完形古代山城。学術的な扱いとしては、史書非記載山城。
「角楼」と言う名の出っ張り
角楼は、鬼ノ城の駐車場から300m程度登ったところにあります。
ここまでの道はしっかり整備されておりますので、問題なく登ることはできます。しかし、割と急登でヒールや革靴ではキツイかもしれません。
というのも、この鬼ノ城の背面側から城内への進行ルートでもあるため、この角度が、防御のために非常に重要となります。
そこに、この「角楼」がそそり立ちます。
この突出部に出来た施設は、「防備」を主として作られた「特殊遺構」とされ、中世山城では見かけません。
中国名は「馬面」
朝鮮半島名は「雉城」
と言われています。日本の他の古代山城では、対馬の金田城に発見されています。
~参考~ 長崎県対馬 東南角石塁
西門のすぐ近くにあるため、敵の侵攻ルートを抑える要所。
また、この角楼らしい特徴として、写真に写っている「柱構造」です。この柱構造は日本では見られませんが、朝鮮半島や中国、ヨーロッパなどでは使用実例があるようです。
本州で見られてラッキー
他に角楼はないのか
果たして、この角楼は一か所だけなのでしょうか。この西門と角楼の立地関係は約60mの距離
非常に重要
というのは、似たような立地が、上部図、北門付近の赤枠らへん存在します。
この鬼ノ城、この角楼・西門ポイントから南路を通り、各水門、城門を通り「屏風折れの石垣」までの「南面ルート」はしっかり調査がされているようですが、
「屏風折れの石垣」から先の「北面ルート」は、歩けば気が付きますが急に案内板が減ってしまいます。途中の赤枠内には、
このような立派な土塁遺構があったり、
節理をいかした石積みらしきものがったりしますが、その案内看板もありません。これは、当時のものではなさそうですが。
全体的に見ても、この赤枠内にはいくつか突出部がありますが、あまり良く分かっておりません。
「村上幸雄氏・乗岡実氏『鬼ノ城と大廻り小廻り』(吉備人出版、1999年)」
も著書の中で書かれていますが、赤枠あたり(旧称第二城門はこのあたり?)は、まだ未調査であるが、南西の角楼跡と対極の位置にあり、背後には城内で二番目に高い峰があるので、機能的には角楼跡と同様とみているとのこと。
南面ルートではなく北面ルートから回ったら、また違う感じかもしれません。どちらにしろ、詳しい調査が待ち遠しいところです。
水門がたくさんあります
水門は「六ケ所」が確認されております。
この鬼ノ城で特筆すべきことは、石組上部に通水口が開口している点です。これは地形によることから、北部九州の古代山城との相違点であるとのこと。参考までに佐賀の基肄城を見てみますと
同時代に造られたであろう基肄城などで、下部に通水口が設けられております。ここは、人が通れるクラスです。
第0水門
この第0水門には、排水溝を持たず、しみ込んだ水が下から抜ける仕組みです。水量が少ないことが理由だと考えられています。調査時、この周辺から自然木や木製品が出土しています。
このような遺物が検出されたようです。また、注目は、この上部にあたる城壁です。
ここには、このような「窪み地」があります。これは、どうも雨水の排水に関係しているとのこと。この場所と第0水門は「一体」ということで、城壁を守るために排水設備だと考えられます。
第一水門
こっちですね
どこにある?
ちょっと分かりづらいですが、
これです。分かりづらい。のも仕方がありません。ここも先ほどの第0水門と同じ通水口を持たない、しみ込んだ水が自然に抜けていくタイプ。
第二水門
第一水門の隣、土塁を挟んだ横にあります。ここも上部に通水口があります。幅と高さ共に、40㎝程度です。
しかも、この通水口の上部土塁は、歩道となっており、写真では右手、その背面に集水口が存在します。
今は、落ち葉で埋まっておりますが、かつてはしっかり反対側が見えておりました。
監視・連絡台?
第二水門と南門の間に、このように眺望がたいへん素晴らしい場所があります。ここは、高石垣で補強されており、平野を見渡すことができます。まさに、監視・連絡には最適な場所です。
鍛冶工房跡
これが、この山城の強みかもしれません。城内で鉄製品の加工が出来たという点。9基もの鍛冶炉が発見されたとのこと。大陸文化の最先端。それは「鉄」!!
第三水門
この立て看板が見えると、そこは第三水門です。土手状遺構が認められ、列石も存在しています。
谷を回り込んだような地形です。そして、ここにも窪地があります。ここに集水口が設けられてるようですが、埋没していて分かりません。水みちは、奥隣にあり、かなりの水量です。
しかし、ここの問題は、見ての通りです。草が生い茂り
何も分からない
という点。また、案内看板もないので、多くの人が通るにも関わらず、何も気づかれることなく「あ、なんか水が流れている」と感じながらも通り過ぎていきます。非常に残念。
本来ですと、降りるための通路があるようですが、通行不可です。ただ、通水口場所は辛うじて見えます。大きな花崗岩の蓋石があり、周辺は重箱積みのようです。
ぜひ、草を刈ってください。
謎の列石
それにしても、第三水門付近から続く、この列石群に気が付きます。西門付近の列石や途中に見かける列石とは役割が違う気がします。山の斜面地形を利用しながら、外側に列石を置くこと内側を通路として利用しているようにみえます。
最強の展望 岩切観音展望所
岩切観音といわれている磨崖仏がある場所。個人的には、ここの展望が一番好きです。ちょうど、木陰や座りやすい岩もあり、休憩にもってこい。
しかし、この場所の列石の配置はよくわからない。この岩切観音の参詣にあわせてちょっと配置が変えられている可能性もあります。
第四水門
第四水門ですが、はいこの通り。現在は草が生い茂り見学は困難。ただし、水量が一番多いので、遺構破壊もかなり進んでいるとのこと。確かに、水の音はかなり聞こえます。
それを見てみたい
ここも、せめて草だけは刈っていただきたいと思います。
第五水門
いよいよ最後の水門跡にやってきました。ここは、「名所 屏風折れ石垣」の手前にあります。おそらくこの場所が一番、「石積遺構」と「土塁遺構」が残っており、見学しがいがあるかもしれません。
「土手状遺構」といわれている部分です。「土堤状遺構」などとも言われます。この右側に通水口があり、左側には貯水池からの流れで集水口があります。
その山手川貯水池と合わせて、一体で大きな遺構群を形成しています。そして、この第五水門は、この時点では草が刈られており、しっかり見学することが出来ました。
しかし、水みちは下にあり、一瞬これが「通水口」と思いましたが、見るべきは上です。
写真では右上に通水口が。集水口が詰まっているので機能していない感じです。石積みの横目地は通っています。
鬼ノ城の水門は、上にある!
名所 屏風折れの石垣
おそらく多くの観光客が、この「屏風折れの石垣」を見学しにきていると思います。この折れはかなりダイナミックで、高石垣もパワフル。
しかしながら、やはり草木が生い茂り下部はあまり分かりません。
個人的見解ですが、この高石垣をみて感じることがあります。それは、この石積みの完成度です。崩壊がかなり進んでいますが、
どうも西門などのクオリティーと比べると下がる気がします。
また、西門近くの列石(神籠石)のこの几帳面な間の詰め方を見ても、「屏風折れの石垣」とは何か違和感があります。一説には
「多様な集団が築城に関わったため」
という説もあるようですが、むしろ微妙に築城時代が違うのではないかとも感じてしまいます。
それにしても、この舌状に突出した場所は、まさに監視や連絡に最適な場所に思えます。
この岩石がゴロゴロしている荒れた感じが、おとぎ話に出てくる「鬼が住む城」を彷彿させる気もします。
「鬼ノ城 その1」で記載した「水城様遺構」ですが、この場所からみるとハッキリと確認することができます。中央を流れている血吸川の流れが不自然に曲げられ、山裾を流れております。
また、この場所は、ほとんどの展望所から見ることができますので、やはり重要な場所だったということがわかります。
他に水門はないのか
ここまで見学してくると、ふとした疑問が思い浮かびます。
北側には水門はないの?
という疑問。しかし、どうも水門はないようです。理由としては、大きな谷筋もなく流水量も少ないので、水門構築を必要としないとされています。
古代山城は面白い
やはり「国家的事業」は規模が桁違いです。戦国大名のものとは、発想も規模を違います。登った感想としても、当ブログの「アクティビティ × 自然 × 文化(山城)」にピッタリ。
ぜひのお越しを
お待ちしております
参考文献:
向井一雄氏 『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2016年)
村上幸雄氏・乗岡実氏 『鬼ノ城と大廻り小廻り』(吉備人出版、1999年)
村上幸雄氏・葛原克人氏 『古代山城・鬼ノ城を歩く』(吉備人選書、2002年)
谷山雅彦氏 『日本の遺跡42 鬼ノ城』(同成社 2011年)
総社市教育委員会 『蘇った天空の城 鬼ノ城』(2018年)
乗岡 実氏 「半田山地理考古 第11号 古代山城の石垣」(2023年)
聞き取り:総社市埋蔵文化財学習の館 学芸員
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