岡山

【岡山県】備中松山城 日本三大山城 岩塊の上に建つ現存天守の一つ 

「日本三大山城」のひとつ

近世の城郭なのに、山の頂上に造られている。しかも日本には「現存12天守」というものがあるのですが、ここもその一つにあたり、加えて「山城」のカテゴリーでは、なんと

山城Q
山城Q

ここだけ!

いつも、山城に登っても、あるのは石垣と土塁ばかりという状況です。それはそれで趣があって楽しめるのですが、ここ備中松山城は「山城」と「現存天守」が見られるかなりオイシイ山城なのです。↓他の日本三大山城。

基本情報

 形態:山城 
 史跡指定:国の指定史跡 100名城
 標高:430m
 城の整備:登山道あり 
 所要時間:2時間
 訪問日:2014.08

駐車場 アクセス

バスで「ふいご峠」まで乗車し、そこから20分程度歩きます。何も知らずに進むと「え!まだ歩くの!?」となり、割とキツイかもしれません。革靴とかは特に。また、季節によりいろいろ規制があるようですので、事前に調べてどこまで車で登れるかなど確認が必要です。

地質をみてみる

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

日本三大山城というだけあって、際立った地形の頂上標高430mの臥牛山小松山山頂にそびえ立つ。地質でみてみると、この切り立った地形はお約束の

山城Q
山城Q

花崗岩

兵庫の竹田城もこんな感じで、花崗岩を削った川が流れており、切り立った河岸段丘の上にありますね。難攻不落の裏に、花崗岩段丘があり!

しかも、この花崗岩は「黒雲母花崗岩」。いわゆる、「御影石」というものです。

面白いことに、その隣の薄いピンクエリアは、

山城Q
山城Q

流紋岩

流紋岩といえば、滋賀にある有名なお城

でしょう。安土城の黒金門の石垣などは見ごたえがあります。

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

この「備中松山城」がある高梁市や、「天神山城」がある和気町らへんまでは、この花崗岩と流紋岩が入り乱れており、この両方の城は、花崗岩の上に建っているようです。だから雰囲気も似ているのでしょうね。

これら岩石の形成時期は、1億年ほど前に火砕流などから流紋岩が形成され、その後7000万~9000万年前ほど前に、ゆっくり上がってきた花崗岩が露出しました。岡山県の特徴的な地質です。

縄張り図 鳥観図

現地地図
大松山城 縄張り図

高梁川を左に備えて、そそり立つ。一般的に備中松山城跡というと、小松山城跡を意味すると思いますが、実は、まだその奥があって、大松山城が詰城になります。この絵図だけみると、小谷城にも似ていますね。

滋賀県 小谷城 現地看板

こちらも、同じように奥に詰城があります。だいたい、こういった詰城は昔の時代の天守で、戦国期などに、手前を増改築したというパターンが多いように思います。

城域に入る

大手門の高石垣

山城Q
山城Q

これはスゴイ!

豊富な花崗岩を使い、もともとある岩塊の上に築いています。この城は、打ち込みハギがほとんどで、守りは固い。岩盤の上に城を作ったことで有名なのは、岐阜の

ですね。ここも岩石は、花崗岩。苗木城は、打ち込みハギというよりも、切り込みハギに近いかもしれませんが、丁寧に隙間なく積み上げられております。

国の指定文化財 「三の平櫓東土塀」

とても絵になります。過去にタイムスリップしたかのような階段。当時の雰囲気が非常に出ています。向こうから武士が歩いてきそうな感じ。この日は、大雨上がりでかなりの湿度。観光客が少なくて良かったのですが、全体的にガスっております。

三の丸から見上げる

この上が「厩曲輪」「二の丸」。この段郭曲輪の造り方もすごいですね。そして、この岩石量です。こういう雰囲気は「岩村城」に似ていますね。

最大の弱点とみた

この城の最大の弱点を見つけました。と言っても、攻城の際の弱点ではありません。この城は、巨岩塊の上に建っています。つまり、「風化」が最大の「敵」です。これを維持するのに、かなりの神経を地方自治体は使っているはずです。実際に、調べてみると昭和3年以降、頻繁に石垣工事を行っているようです。

参考文献:
史跡備中松山城跡石垣総合調査報告書 岡山県高梁市教育委員会 2004.3
史跡備中松山城跡 中太鼓の丸跡・下太鼓の丸跡 保存整備工事報告書 岡山県高梁市教育委員会 2014

上記資料を読めば、その苦労を知ることができます。

昭和初期 中学校教師 信野友春氏の熱意

昭和14年 解体修理前の天守

表題の信野友春氏の熱意が、住民を動かし、行政を動かした。1940年に見事な復活。その後、昭和の大改修(1960年)、平成の大改修(2002年)などを経て、現在に至る。一人の情熱が起点となった素晴らしい話だと思います。このように、当たり前のモノの価値に気が付くヒトって、必ず必要ですよね。

この正面のたたずまいこそが「備中松山城」ですね。

現存する二重櫓

こちらからも上がれるようです。扉は閉まっていますが。

どうしてこうなった!?

山城Q
山城Q

あれ!??

この写真を見て、おかしなところに気が付きました。それは、この鉄砲銃眼です。どこがおかしいかと申しますと、鉄砲銃眼の内部が三角錐になっています。しかし、これは

山城Q
山城Q

表裏が逆

じゃないでしょうか。つまり、鉄砲の銃身を差し込むのであれば、空間が広い方が左右上下に動かしやすいですが、見た限り外側にその工夫がされております。逆ですよ逆。「三の平櫓東土塀」の方は、あってましたが、こちらは設置ミスではないでしょうか。

さて、この先は

この先は、相畑城戸跡や天神の丸跡をへて大松山城跡へ向かいたかったのですが、思いのほか手前で時間を使ってしまいました。また、写真では伝わらないかもしれませんが、「蚊」の大群に襲われておりまして。いったん

山城Q
山城Q

「転進」

その2に続く

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