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幼少期

小学生の時に観た

引用元:hulu

に触発されて、小学生ながらに将来の夢は

山城Q
山城Q

考古学者になる

と決める。しかし、時代は

引用:毎日新聞 2016/11/6 09:20(最終更新 11/6 16:25)

当時は、いわゆる「就職(超)氷河期」の真っただ中。社会全体が閉塞感に包まれ、将来に対する不安が常につきまとっていました。

そんな状況の中で、最終的に私は、子どものころから抱いていた「考古学専攻」「歴史学専攻」という夢を断念せざるを得ませんでした。

しかし、

山城Q
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京都に行けば、何か出来るかもしれない

と考えた管理人でした。

歴史学者 井上 満郎氏の研究室を訪ねる

偶然にも、私が通っていた大学には、
「平安時代の軍事」や「渡来人の研究」で高名な「井上満郎先生」が在籍していることを知りました。

「よし、ちょっと研究室を訪ねてみようか」

と思い切って研究室の扉を叩いたあの日の行動が、のちに私の人生に大きく関わる出来事へとつながっていくとは、当時の自分には想像もつきませんでした。

そして――

井上満郎 氏

専門分野:日本中世史、宗教史、都市史(京都)
所属:京都大学大学院文学研究科 名誉教授(かつて在籍)
研究テーマ:地域社会の形成過程と歴史遺産の継承 平安時代~中世の京都の都市構造 宗教空間(寺院・神社)の変遷と民衆信仰

山城Q
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遺跡発掘がしたいので、
京都市埋蔵文化財研究所を紹介して下さい

という、めちゃくちゃなお願いをする。今思うと、若さゆえ、学生ならではの思い切った行動でした。すると、井上先生は、

井上満郎氏
井上満郎氏

今は、研究所ではアルバイトは募集していないから
私の知り合いの先生を紹介してあげよう

ということで、とある発掘現場に移動したのでした。

元京都市埋蔵文化財研究所職員 家崎 考治氏との出会い

井上満郎氏
井上満郎氏

この子が電話したウチの学生
面倒を見てやってもらえる

家崎 考治 氏

京都市埋蔵文化財研究所(現・財団法人京都市埋蔵文化財研究所)にかつて勤務。考古学者。主に屋根瓦などの瓦器を専門とし、緊急発掘や試掘・立会調査などを幅広く手がける

京都市内では、建物を建てる際に、地下を発掘調査(緊急発掘)することが条例で決まっていて、家崎氏は、その業務を請け負う現場組織の責任者であり、井上氏は、その顧問という関係でした。

ここから、管理者の平日3日~4日/週、京都市内での「遺跡発掘従事業務」が始まったのでした。

京都市内の発掘現場現場。約半年~1年半程度の期間で行う。

「発掘作業」と聞くと、繊細な作業やロマンあふれる発見の連続を想像されるかもしれません。しかし実際には、発掘とはほぼ“土木作業”そのものです。

まず、重機で地表を真っ平らに削り取る整地作業から始まります。そしてその後、作業員全員が四つん這いになって一列に並び、「ガリ」と呼ばれる園芸用の小さな器具を使って、少しずつ地面を削っていくのです。

まさに、地道で根気のいる作業の連続。発掘現場は、静かで粘り強い闘いの場でもありました。その中で、土の色が違う場所を見つけると

山城Q
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「先生、先生」

と呼び、検証開始。スプレーで地面にマーキングを施し、
「もっと掘ってください」
「周辺を削ってください」
といった細かな指示を受けながら、ひたすら地面に向き合う作業が続きます。

若かったこともあり、私は井戸内部の発掘作業を任されることが多く、少し掘り下げては、出てきた石を取り除き、また掘り進める。

そんな作業の繰り返しでした。深さは自分の背丈を超えることもしばしばで、内部は狭く、身動きもままならない空間です。

しかも、ここは京都。夏の暑さは容赦なく、泥まみれになりながら、汗だくで、ただただ、黙々と土と向き合い続ける日々でした。

ちなみに、上記の井戸跡は、石組が施されており、時代は江戸時代以降のモノ。石垣技術が転用されました。それ以前は、木での枠組みでした。

こんなこともありました。当初は、「井戸かな」と思い、ちょっと大きめの穴を掘っていた時、底で「常滑焼の大甕」が出土。

常滑焼は、非常に大きい物もあります。そして、昔の用途の一つは、

「トイレ」

というものがありました。つまり、ここは中世人のトイレの跡。

山城Q
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なんということだ

そんなこともありながら、この時は、甕底から「古銭」が6枚出土。汚物という穢れを古銭で浄化しただの、服をめくりあげた時に落としただの議論が巻き起こったのを覚えています。

先ほどの常滑焼のトイレは左上、しかし、下には多数の井戸跡。時代が変われば、何があるかは、もはやわからないのが、京都という土地の地下。

別の場所では、ある時代は大規模墓地だが、別の時代では、普通に宅地というのもありました。

京都の土壌性質の関係で、人骨はあまり出てきませんでした。(山科地区では人骨が出たことがあります)

何もない地面を器材で削り取り、わずかな土の違いで掘り方を変えるという職人芸。掘り過ぎると次の時代の層に当たってしまい良くない。

この手の土器(土師器)は、いくらでも出てきます。御所の蛤御門周辺を調査した際には、焦土層がキレイに出土し、有名な「蛤御門の変」を実感したことなんかも。

が、しかし、これは違いました。

山城Q
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これは、弥生式土器の一部です

京都の地下は「弥生時代」までさかのぼることができます。土器は赤褐色で、本当に赤かったです。これが出たときは、正直感動しました。

山城Q
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今、考古学に触れている!

地質学者 能田 成氏との出会い

管理者は昔から化石に強い興味を抱いており、特にアンモナイトや二枚貝、巻貝といった“貝系”の化石に心を奪われてきました。

中学生の頃には、地元の地層や海岸を歩き回っては、自らの手で化石を探し出すという探究心あふれる日々を過ごしていました。まるで時をさかのぼる冒険のようなその体験が、自然と地球の歴史への好奇心を一層深めていったのです。

大学での一般教育課程も「歴史」「地球史」に絞り込んだため、

「地球史」

という講義を2年間連続受講しました。

能田 成 氏

能田 成(のうだ すすむ)日本の地質学者・地球化学者。専門分野は同位体地球化学および地質年代測定で、鉛(Pb)、ストロンチウム(Sr)、ネオジム(Nd)などの同位体を用いた研究。1979年、1984年アメリカ合州国カリフォルニア理工科大学客員研究員

特にフィールドワークが多く、あちこちの山に登り地質の話を聞いていました。そんなちょっとマニアックなゼミだったある日、先生より、

能田成 氏
能田成 氏

今度の夏に、アメリカのアリゾナ砂漠(だったと思います)に恐竜が絶滅した際の隕石分布で地質調査に行くから、一緒に来ない?

的なことを言われる。しかし、当時、家庭の事情で夏は家業を手伝うことになっていたため、

山城Q
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家庭の事情で辞退します

と断ったのでした。これに付いて行っていると管理者の人生も変わっていたなあと思います。

そして、就職は、、、

しかし、時代はまさに就職超氷河期。いわゆる「ロスジェネ世代」の真っただ中でした。どれほど情熱を注いだ学生時代の研究や経験があっても、それを活かせる場はほとんど見つかりませんでした。

そして私は、学生時代に熱中してきたこととはまったく異なる業界・仕事を選ぶことになりました。
現実を受け入れざるを得なかった。そんな時代でした。

観光カリスマ 山田桂一郎 氏との出会い

派遣社員として、移動や転勤で全国を数年で飛び回り、いつしか休みの日は、山城に登ることが休日ライフワークになっていました。

~ ある一日のスケジュール ~
1.早朝の日の出と共に、山城に登る
2.15時に切り上げ、山城の麓の町内や武家屋敷や観光地を散策
3.夕方、食事や温泉に入って帰る

そんな中、あることに気がつきました。

山城Q
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これは、何か学問があるのではないか

と思いちょっとネットで調べてみたところ、これは

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「観光学」

というキーワードがヒットし、「南紀熊野観光塾 第一期生募集」という募集要項が目に留まったのでした。

南紀熊野観光塾とは

山田 佳一郎 氏

1987年 ツェルマット観光局
1992年 JTIC.SWISS(日本語インフォメーションセンター)設立
2004年 特定非営利活動法人 日本エコツーリズム協会 理事
2005年 内閣府、国土交通省、農林水産省認定 観光カリスマ ※略歴一部抜粋

和歌山大学と環境省(旧・環境庁)が共催で開催された和歌山県の南紀地域(紀南地方)を対象とした観光振興のための講座であり、

講義やフィールドワークを通じて地域の魅力を学ぶと共に、特に、エコツーリズムや持続可能な観光の概念を重視し、地域の資源を守りながら観光振興を図ることを学びました。

当塾は、地域資源を活かした持続可能な観光のモデルケースとして、他地域への展開や参考事例としても注目された。

管理人は、第一期生として「観光カリスマ」指導のもと、先進的な成功している観光地の事例だけではなく、地域が抱える課題や問題を共有し、約半年間「観光学」を科学したのでした。

山城Q
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選ばれ続ける地域になるための方策を議論しました

さらに、「山城登り」をアクティビティとして捉え、「アドベンチャーツーリズム」とし、単に山城に登るのではなく、自然や地域文化の象徴としての「山城の価値・気付き」を発信したいと考えるようになりました。

地方でよく聞く

・うちには何もない
・山と川と谷しかない
・昔から当たり前にある

は、地元の人にとっては当たり前でも、実は都市の人や外国人には非常に新鮮に映ります。その原因は、地域からの情報発信が圧倒的に不足していることにあると考えています。

そこで私は、自らが「見た」「聞いた」「感じた」一次情報をもとに、ブログという形で発信することにしました。

この発信が、地域に関心を持つきっかけとなり、交流人口の増加や地域アイデンティティの再発見へとつながっていくことを願っています。

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