基本情報
形態:丘城
史跡指定:国指定史跡
城の整備:駐車場 歩道
所要時間:30分
訪問日:2016年10月
駐車場 アクセス
宇土市にある二つの「宇土城」
小西行長が作った「近世宇土城」
宇土氏や名和氏の「宇土古城」
と分けています。実際には、宇土城はこの宇土新城を指します。
地質
こちらの「宇土古城」は、安山岩・玄武岩層でかなり安定しています。
縄張り図 現地看板
丘の上にあり、古典的なスタイルです。しかし、古墳時代から使われており、首長の館も存在したとか。もともとそういう場所なんでしょう。
この宇土古城の城主は、もともとは宇土氏だったそうですが、1504年頃に人吉の相良氏に攻められた八代の「名和氏」が入城し、その後80年治めたのですが、1588年に小西行長が治めたとのこと。
城域に入る
謎の空堀の仕切り
早速、謎を見せてくれます。この仕切りはなんでしょうか。まさか、障子掘り。。。ではないでしょうし。
間に岩がおかれていたり。仕切られていたり。。。このような形状だったのか、意図的に残したのか。不明。
段郭
本丸門の坂
冠木門が復元されている
本丸内
典型的な門の作りというか古風です。
本丸の空堀
周辺も丁寧に空堀に囲まれていますが、防御度は低いように思えます。
時期を変えて、比べてみました。段郭が綺麗に残っています。和水の田中城のような感じです
柱跡から建物の規模が分かります
遺棄された謎の宝篋印塔 五輪塔
あんまり見ない。これが見どころですよ
さて、一番興味深かったのは、この宝篋印塔 五輪塔群です。なんでも、説明書きには、「城割の際に遺棄された」と書かれていました。
なぜ、そんなことが行われたのだろう??
宝篋印塔 五輪塔は、お墓ではありません。供養塔のようなもので、数を造れば造るほど、対象者はウカバレルと聞いたことがあります。
1589年に小西行長が「近世宇土城」を築城したとあります。当時の天草は人口3万の2/3にあたる2万3千が切支丹であり、60人あまりの神父、30の教会が存在したというではありませんか。城割の際に、仏教的な物を遺棄し、一神教である切支丹への柔和策などを取ったのでしょう。
この考え方は、安土城にも垣間見えます。だから、全国では例がないとなるのではないかと感じました。
・ここにも、南朝名門・名和氏の存在
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