

いざ、小豆島へ



ついに、相棒のMINIと一緒に、女子旅でも人気の「小豆島」へ。小豆島と言えば、

こんなとか

こんなとか

こんなとかですが。目的地は、そこではございません。
「小豆島にも山城がある」
「皇踏山城」と「星ケ城」という変わった名前の山城
「2つの城とも本土のモノとは少し様子が違う」
という情報があり、この目で確かめようと訪れたのでした。目的は、どちらかというと「星ケ城」だったため、「皇踏山城」は立ち寄る程度の旅程でした。しかし、訪れてみて、全くもって

消化不良
な旅になったのです。そこから「古代山城の沼」にドップリハマっていったのでした。


基本情報
形態:山城
史跡指定:国の指定史跡
標高:394m
城の整備:登山道あり
所要時間:往復2時間
訪問日:2020.03
駐車場 アクセス
八坂神社周辺に駐車場を見つけて停めさせていただきました。
地質を確認

地質を確認すると、あることに気が付きます。この色のパターンは、

高松周辺の山城と同じ
高松周辺の独特な地形について

高松周辺には、かつての火山活動によって形成された、非常に特徴的な地形があります。この地域の地層は、上から順に以下のように構成されています:
山頂部:讃岐岩質安山岩
⇒ 非常に硬く風化しにくい、火山由来の岩石。
中間層:凝灰岩・凝灰角礫岩
⇒ 火山灰が固まったもので、やや脆く削られやすい層。
下層:花崗岩(かこうがん)
⇒ 地下深くで形成された岩石で、風化しやすく、浸食に弱いのが特徴。
この地層構造により、山頂の硬い安山岩が「傘」のように上に乗っている形となり、下の花崗岩が雨風で削られても、傘の真下だけは守られるという現象が起こります。その結果、周囲が削られても山頂部が残る独立した地形が形成されるのです。
「メサ」と「ビュート」の違い
硬い地層がテーブル状の形に残った土地を「メサ」、
塔のように残った土地を「ビュート」
と分けて考えます。つまり、この皇踏山城も

高松周辺にある古代山城「讃岐城山城」「屋嶋城」と同じ「メサ地質」であるということが見て取れます。事前調査では、この山城は「古代山城」「戦国時代の山城」「中世の山城」など様々な解釈があるようですが、

なんか怪しい
鳥瞰図 縄張り図
この位置に看板地図があります。


いくつかの地図が存在しますが、この地図が一番、分かりやすいと思います。形としては、屋嶋のようなトンガッタ岬のような感じ。そして、中央部にいろいろな遺構跡があるようです。

そして、なにやら、縦横無尽に石垣?が連続して続いています。
赤枠内には、空堀・土塁・大手道・一の曲輪・二の曲輪・水の手曲輪など、さまざまな名称が入り乱れています。まるで戦国時代の遺構の図面をそのまま見ているかのようです。
「皇踏山(こうとうざん)」という名からして、もしかするとかつて皇族が登頂した記録があるのかもしれません。詳細はわかりませんが、名前に惹かれ、まずは登ってみることにしました。
皇踏山の概略

もとは、「大戸山」とか「青門山」とか言ったようです。古くから「山城伝説」が残るらしく「まぼろしの城」だということです。
城域に入る



猫がしばらく付いてきました

滝宮ベース(みんなの秘密基地)側から道順に上っていきます。結構な斜面です。気が付くと、



石積み?
道順脇の茂みの中に、何本かの小さな石積み列などを見かけます。え!もう始まった?
謎の大規模石積群



え!?
どこまで続く石積みが目に飛び込んでくるのでした。

何これ??



なんだこれは!!
山頂に近づくにつれて、突如あらわれる謎の長大な石塁。
まったく予想していなかっただけに、意味がわからずテンションMAX!
石垣好きなら、きっと誰もが興奮する瞬間です。
「これは一体なんなんだ?」「どこからどこまで続いているんだ?」
先が見えないその存在に、ただただ圧倒されます。
実は、この石塁には驚くべき秘密が隠されていたのです。
正体は「しし垣」
これらは「しし垣」という石塁で、江戸時代に「猪」や「鹿」から作物を守るために造られたものだということです。

小豆島にある「しし垣」の総延長は

百数十キロ!?
に及ぶというもので、小豆島全域に広がっており、「橘峠のしし垣」「長崎地区のしし垣」が特に有名とのこと。ここは山頂部1.5㎞程度です。
江戸時代の古記録にも、しし垣は登場する。寛政期のはじめ「里正村上彦三郎」という人物が、島40村落を説得し、わずかな期間での大工事の末に完成させたとの文献もあります。
島しょでの鳥獣被害は、現代人が思う以上にかなり深刻だったようでです。
~参考~
長崎県「対馬」でも、似たような鳥獣被害の話があります
江戸時代に「陶山訥庵(すやま・とつあん)」という奉行により農作物をイノシシの害から守るために、実施されたイノシシの全滅計画「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」が有名です。

「陶山訥庵(すやま・とつあん)」
対馬藩の儒医陶山玄育の子として対馬府中(厳原)に生まれ、
1699年(元禄12年)に、第3代藩主宗義真の下で対馬藩郡奉行に就任。「人よりも猪が多い」と言われた対馬で、10年の歳月をかけ、8万頭の猪を退治し、全滅させた。


実は、管理人は、この「陶山訥庵のお墓」を訪れたことがあります。
つまり、

しし垣は、山城の石垣ではない
ということで、しし垣と山城は分けて考えないと、「本質」を見誤ることになりそうです。しかし、極端な話、これ目的に、追いかけて見て回っても楽しいです。


たまにこのような「囲い遺構」があります。この用途はなんなのか不明。


何が面白いかというと、このしし垣、ただの境界や防御線ではありません。
驚くべきことに、山中の起伏や地形をまるで無視するかのように、縦横無尽に巡らされているのです。
「普通はこう来るだろう」と思ったところに現れず、「なぜここに?」という場所に現れる。
その予測不能な展開、まさに“読めなさ”こそが最大の魅力。
ただの構造物ではなく、動きのある謎解きのような存在なのです。

これが登り口にあった看板に書かれていた石塁は、これらのことだったのです。

たとえ中世や戦国時代の石垣でないと頭ではわかっていても、
「やはり、もしかして……これは山城の石垣なのでは?」
と、そう思わずにはいられません。それほどまでに圧巻のスケールなのです。
実際には、これは江戸時代に築かれた“しし垣”。獣から作物を守るための石の防御線。
山城のロマンとは違うかもしれませんが、これを山中に積み上げた島の人々の労力は、想像を絶するものだったはずです。
ところが近年では、開発の影や風化が進み、このしし垣も徐々にその姿を消しつつあります。
いくつかの文献にも、「この遺構は人々の記憶から忘れられつつある」と書かれていました。
今、私たちがこうして向き合うことこそが、そんな静かな歴史の声をすくい上げる最後の機会なのかもしれません。

非常に惜しい
当ブログのテーマでもある「ツーリズム(目的をもった観光)」では、このしし垣を見て歩くことも、その土地の文化に触れる貴重な体験になると思います。

巨大しし垣の城 皇踏山城
とかすれば、差別化はできます。
※参考文献:
皇踏山城資料/猪垣遺跡考(斎藤忠) 日本古代遺跡の研究-論考編 1976
猪鹿垣遺構を残し伝えるために-(港誠吾)日本のシシ垣(高橋春成)2010
皇踏山城資料/小豆島町の文化財P46,47
遠望
さて、城の東側の二番目の高さの位置に展望台があります。


この展望台あたりが、追える「しし垣」の端って感じです。それにしても、ここの眺めはスゴイです。瀬戸内海は当然、四国地方まで見渡すことができます。

右の平らな山頂は、屋嶋です。
ん?この風景はどこかで
「しし垣」の物量に圧倒されながら、さらに東側の展望所から眺めてみました。


改めて南側の下方を眺めると、女子が大好きなエンジェルロードが分かります。ほんとキレイです。そして、ついでに西側を見かけたその時、


お!
この風景は、どこかで見たことがある。そう長崎県対馬の金田城でみた山頂の風景です。
~ 参考 ~

まさにソックリ。う~ん、これは偶然なのか。こんなのを見てしまうと、やっぱり

腑に落ちない
なるほど。この皇踏山城は、「謎の城」「まぼろしの城」「経歴不明の城」と言われるだけあって、完全に消化不良。
検証してみた

そこで、「メサ台地」確認でしようした地図の範囲をもっと広げてみました。

そういえば、岡山の古代山城との立地も気になったところ、

何やら等間隔!
だということに気が付きました。そこで、距離を測ってみたところ

その距離、およそ20km前後。
果たして、これは本当に偶然なのだろうか。
しし垣が中世の山城とは無関係だということは、すでに分かっている。
しかし、古代山城との関係は、本当にないのだろうか?
この規模、この配置、そしてこの存在感……どこかに、意図や痕跡が潜んでいるのではないか。
残念ながら、このときの訪問は時間的な制約もあり、ここで一旦終了とせざるを得なかった。
だが、この土地に刻まれた謎は、まだ終わっていない。
調査報告書を取り寄せる
この山城については、「中世の山城である」という評価が、世間では徐々に定着しつつあるようです。
しかし、管理人として現地を歩いた体感としては、
「本当にそれだけなのか? もっと別の謎が隠されているのでは?」という疑問が拭えませんでした。
そこで思ったのです。ならばいっそ、一次情報にあたってみようと。
「そもそも、“中世の山城”だと言われるようになった情報の出所はどこなのか?」
「誰が最初にそう言い始めたのか? それは文献か、地元の伝承か、それとも最近の研究なのか?」

すると、上記の調査報告書の存在に行きつきました。
そこで偶然、本書がAmazonで販売されているのを見つけました(Amazonすごい!)。
さっそく取り寄せて、中身をじっくりと熟読してみることに。
すると、そこにはこれまで知らなかった多くの新事実が詰まっていたのです。感想としては、

「当時の認識」
「スーパーアドバイザー」
「足らない点」
があるように感じました。特に、「スーパーアドバイザー」の名前を見た時は、おもわず「え!」と非常に驚きました。
この方は、既に昭和60年頃には「業界有名人」であり、「中世城郭研究の第一人者」として活躍されていたことが伺えます。そら~~この方が、この城を評価したら

戦国期の山城
が定説になってしまいます。果たして、この山は一体なんなのか。古代山城なのか、中世山城なのか。「その2」に続く・・・
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