

~前回からの続き~
基本情報
形態:山城
標高:394m
城の整備:登山道あり
所要時間:往復2時間
訪問日:2020.03
駐車場 アクセス
八坂神社周辺に駐車場を見つけて停めさせていただきました。
地質を確認
「謎の城」「まぼろしの城」「経歴不明の城」と言われる皇踏山城。

台地は、屋嶋城や讃岐城山城と同じメサ台地を呈し


これらの古代山城の立地条件、距離感は約20km前後。これらの点に完全にひっかかり、すっかり

消化不良
になってしまいました。
鳥瞰図 縄張り図

縦横無尽に石垣?が連続して続いておりますが、これらは「しし垣」という鳥獣対策のために造られたものです。
中世の山城たる証拠

しし垣が城郭とは無関係であることは確認できました。肝心なのは、赤枠内に見える空堀・土塁・大手道・一の曲輪・二の曲輪・水の手曲輪などの遺構です。
この山が果たして本当に中世の山城なのかどうか、そこが最大のポイント。そこで、案内看板をさらに拡大して詳しく見てみることにしました。

何やら複雑です。空堀と土塁と曲輪などの文字が見られます。しかし、非常に

分かりづらい
というのが第一印象。
~参考~ 新潟県 春日山城の案内図

これまで、多数の有名山城に登って来ました。中世山城は、明確なパターンがあり、一見するとすぐに分かります。この皇踏山城でも、その縄張り図では土塁と空堀は、確認することができます。
しかし、「中世の山城」との説明ですが、山城特有の平坦地曲輪、連郭もありませんし、竪堀、堀切などもありません。山城というよりも、もっと大雑把な印象です。
※参考文献 皇踏山城_日本城郭大系
調査報告書を取り寄せる
そこで、「一次情報に触れてみよう」と考え、「中世の山城である」という情報の出所を探ると、

上記の調査報告書の存在に行きつきました。
そこで、本書が「AMAZON」で販売されているのを見つけ(AMAZONスゴイ)、早速取り寄せ、中身を熟読してみたのでした。すると、たくさんの新事実が判明したのでした。
静岡大 小和田哲男氏の登場
この調査報告書は、土庄町が主体となり、
大正大学 教授 斎藤忠博士を調査主任
調査の最終段階にあたり、静岡大学 助教授(当時)小和田哲男氏
が、スーパーアドバイザーとして登場し、所見を述べられております。
小和田哲男。日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本城郭協会理事長。岐阜関ケ原古戦場記念館館長。研究分野は、日本中世史、特に戦国時代史、後北条氏、今川氏。

びっくり!!
「中世山城」としての文献とは
現在知られている資料によると、
『小豆島肥土庄八幡宮御縁起』
『紀伊国牟婁郡小山氏文書』
の中に、南北朝時代に備前国飽浦(現在の岡山県備前市あたり)出身の「佐々木信胤(のぶたね)」という人物が小豆島に拠点を築き、吉野の南朝側に味方した、という記述が見られます。
しかしながら、これらの文書だけでは、
この山城が佐々木信胤氏の拠点であったと断定するには至っていないのが現状です。

この情報が、出回っているんですね
中世山城として検証
調査報告書には、数値や方位、規模の記載が多く、正直なところイメージしづらい部分もあります。
また、皇踏山城に関する解説には、二人の専門家の見解が存在します。
一人は大正大学の斉藤忠氏で、現場調査の視点からまとめられた図。
一人は静岡大学の小和田哲男氏で、中世山城の専門的観点から作成された縄張り図です。
興味深いことに、この二人の縄張り図は、微妙に位置や形が異なっています。
そこで、管理人としては、この二つの縄張り図を「自分なりのレベル感」で統合し、しし垣の部分を除いた状態でオリジナルの縄張り図を作成してみました。
こうして改めて観察してみると、斉藤氏と小和田氏が、それぞれの専門立場からこの山城をどう推察しているかが、より鮮明に見えてきます。

そして、初回訪問から時間が空きましたが、万全の準備をして、初回訪問から

3年後に
二度目の再訪を行いました。
土堤遺構と(第一)土塁


この看板をみた感じ。この山頂メサ台地入口を封鎖するような形で作られております。

南北にゆるくS字状のカーブ。標高350mの稜線を活用した外郭線を作っております。全長180m、木戸ポイントからの長さは、北方向へ約120m。

空堀内を北側に進みます。写真は南側を振り向いた際。この土塁はほんとに雄大。

東側城内側の土塁の高さは、約2m~3mほど。傾斜25℃ほど。途中に、竹藪が切れたところがあり、登ると上部の「北の曲輪」平坦地に出ます。山頂部にも土塁があります。
喰違い虎口

また、大手道に戻り今度は、虎口のあたりをみてみます。


ここら辺が、「喰違い虎口」とされる場所。正面の道は、大手道とされ、本来はまっすぐに進みます。
左側南手の藪の中に
しかし、ちょっと、虎口の左側も見てみようと藪の中へ


こっちの法面の方がやや高いです。高さ3m超ぐらいあります。明らかに人の手が入っています。
二の木戸


「二の木戸」を「大手門」としている。この岩が根石のようで、道を挟んで左右に存在します。
石塊列


二の木戸から一の曲輪に通じる道上にある巨魁岩石列。自然物にも見えるが、ある程度意図的に並べられているようにも見える。
一の曲輪(本曲輪)


そして、一番確認したかったのは、この「一の曲輪(本曲輪)」だったのです。報告書によると、この「一の曲輪(本曲輪)」の中には、

謎の二段敷石

このような「謎の敷石」があると書かれていたのでした。

もともと方形岩石が多い土地ですが、きれいに並べられており、こちらも明らかに人の手が入っています。



今は落ち葉に覆われているが、かつての発掘調査ではこの下に「石敷」が埋まっている。外郭だけ見ても方形に縁どられており、平坦地であることが分かる。

これはいったい?
ここには何があったのでしょうか。この敷石は何を意味するのか。
果たして
今回の項では、なぜこの皇踏山城が「中世の山城」として情報が広まっているのかを、元の調査報告書をもとに改めて整理してみました。
その結果、当時は二氏がそれぞれの立場から丁寧に検証を行っていたことがよく理解できました。しかし管理人としては、特に以下の二つの遺構に強く注目しています。
- 土堤遺構、土塁と空堀
- 敷石遺構
これらは一体どのようなものなのか、またどんな意味があるのか
その点については、また次回じっくりと書いていきたいと思います。
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