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≪新説≫那須与一 世界遺産「熊野古道 長尾坂と潮見峠越」-前編-

はじめに

アーノルド・J・トゥインビー の 格言

「12,13歳までに、神話を学ばなかった民族は例外なく滅ぶ」

20世紀を代表するイギリスの歴史学者
アーノルド・J・トゥインビー

この格言については、言った言わないの論争はありますが、管理者としては真実であり、非常に的を得ていると思います。今回のブログは、非常に中身の濃い内容となります。しかし、調査をまとめ上げるのに足掛け約10年間、掛かっています。

急速な人口減少に加え、地方での伝承や文化継承が課題となっておりますが、このような形で、半永久的に残すことは、地域住民や自身のアイデンティティの確認にはとても必要なことです。

【動画】結果、完成した「地域のアイデンティティ」に関する動画

先に結論から申し上げますと、最終的に地元地域の方々にも活躍していただくことになりました。

地元地域を中心とした「那須与一・那須定守委員会」が立ち上がり、田辺市の文化関連補助金なども頂き、動画編集のプロも加わり、多くの人を巻き込み、この動画が完成しました。

私の小さな「なぜ!?」をキッカケに、地域住民の方々も「疑問」に思っていたことを無事に解決することができ、非常に光栄に思います。

先にこの動画をご視聴いただくと、

≪新説≫ 那須与一 と 熊野古道 定守伝 ~紀州那須氏の興亡~

の理解が早くなると考えます。

日本地域での那須氏関わる史跡など

各地区の那須与一に関わる史跡など

各地域で、那須氏・那須与一に関わる史跡やお墓が存在し、それぞれに地域で大切に管理されています。管理者も実際に、各所に足を運び見て回りました。

その中で、一番驚いたことは、現地の住民の方と話をしたときに、その「歴史や所以」をスラスラと説明して頂いたことです。共通して自分たちの土地の事をしっかり理解されて、それを他人に話すことが出来る。そんなレベルでした。

山城渡りQ
山城渡りQ

衝撃を受けました

逆に、管理者は自分の先祖のことは、せいぜい、数代前から農業をしていた程度。地域が「古城地区」というものの、何の城があったのかも知らない。親に聞いても「知らない」し、誰も正確なことは分からない。なぜ、同姓が多いのかさえ知らない。つまり、

地元の人が、地元について正確には何にも知らない

という現実でした。この事実に、

山城渡りQ
山城渡りQ

非常に危機感を覚えました

そんな時にこの本に出合いました

先祖を千年、遡る 名字・戸籍・墓・家紋でわかるあなたのルーツ (幻冬舎新書) [ 丸山学 ]
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自分の先祖はどんな人物だったのか―?日本人の90%が江戸時代、農民だったとされるが、さらに平安時代まで千年遡ると、半数は藤原鎌足にルーツがあるという。今は庶民でも、かつては名家で、歴史的な事件の渦中にいたかもしれない。先祖探しのコツは、二方向から。まず名字・家紋からおおよその系譜にあたりをつけ、同時に、古い戸籍や墓石の情報から、寺や郷土の記録をたどるのだ。最終目標は、千年前の自家の名字を明らかにすること。先祖探しのプロが、自分自身の謎を解く醍醐味とその具体的手法を伝授する。

本の中では、「自身のお寺に調査に行け」という内容が書かれておりました。また、同時に父より「お寺に那須与一の墓があるの知ってる?」とも言われたのです。

そこで、「参拝する」のではなく、初めて「調査する」目的で、実家のお墓を調べたのでした。そこで、墓石の「家紋」を調べたのでした。すると、我が家の家紋は、

「左三つ巴」

・主に源氏系の武士から武神と崇められてきた八幡宮の影響からか、武士階級に使用氏族が多い
・由来には諸説ある。勾玉(まがたま)であるという説、弓を射る時に使う鞆であるという説などが代表的。

山城渡りQ
山城渡りQ

え!昔は武士だったの?どこの?いつの時代の??

様々な伝承を一つにまとめてみると

そこから、先祖について興味を持ちました。住職や地域住民への聞き取りや古文書確認を行ったところ、様々な伝承が残っていることが分かりました。書き出してみると

  • 地区の中心を通る熊野古道は、昔は主要道であり、おおいに賑わった
  • 不動寺には、那須与一の墓?供養塔?が二つある
  • 那須定守という人物が、地頭として長野に来る
  • 那須定守は禅寺を不動寺と改め、七堂伽藍の大寺院に作り変える
  • 不動寺周辺にお堂や塔などの地名が残る
  • 那須定守が寺内など三か所に梛を植える
  • 那須定守が那須八幡神社と長福寺(光福寺)を作る
  • 那須八幡神社の祝詞が、光福寺に存在する
  • 古城という地名が残る。ここに那須定守が城を作る。
  • 上三栖にエコン城という城を作り拠点を移す。その麓に館がある
  • 1418年に熊野本宮勢との間に「田辺合戦」が起こる
  • 同、「大瀬の戦い」にて那須定守一族が全滅する
  • 熊野本宮勢に不動寺を焼かれる
  • その際に、那須与一供養塔などを住民が運び出す
  • 羽柴秀吉による「紀州攻め」でも、再び不動寺を焼かれる

これらの情報は、当初はバラバラであり、情報はあるのに、関係性研究がされていませんでした。那須姓がなぜこの地域に存在するのかも、よく理解されておらず、那須与一と那須定守というネームが頻繁に出てくるが、ゴチャゴチャになっていたり、こじ付けのようなものもありました。

超田舎山間地で昔、一体何があった??

山城渡りQ
山城渡りQ

どうも、「那須定守」という人物がキーマンらしい

そして、上記の伝承や事実を整理すると

山城渡りQ
山城渡りQ

一本の歴史ストーリー

が見えてきたのでした。

世界遺産「熊野古道 長尾坂と潮見峠越」とは

世界遺産 熊野古道とは

古代から中世にかけ、本宮・新宮・那智の熊野三山の信仰が高まり、上皇・女院から庶民にいたるまで、多くの人々が熊野を参詣した参詣道です。

二つに分かれる世界遺産「熊野古道」

しかし、この熊野古道は、途中から二手に分かれるのです

「潮見峠越え」は、熊野三山への参詣道、熊野古道中辺路の派生ルートのひとつ。万呂王子付近で中世の参詣道のルートと別れ、潮見峠を越えて富田川沿いの栗栖川に下り、高原で中世以来の参詣道に合流する。潮見峠の田辺側入り口である長尾坂とともに国の史跡「熊野参詣道」の一部

熊野古道 長尾坂とは

たった600mの登り坂ではありますが、各時代ごとの逸話が凝縮されており、途中には近世の石畳が残されていたり、入った瞬間に良さを感じることができる非常に雰囲気のある場所です。

なぜ、長尾坂周辺にこれだけの山城がある!?

坂だけではなく、ちょっと調べてみると、各山頂ごとにお城が築かれていることがわかりました。しかし、いったい誰が何のために造ったのか良く分かりません。唯一、衣笠城は「愛洲氏」という一族が治めたということぐらいは分かりました。

そこで、管理者がそれぞれのお城に登って、簡単にで縄張り図を書いてみたところ、城の役割が見えてきました。浄土山城は見張り砦でしたが、高地山城は、岩を使った虎口、謎の石組などやや技巧的なところがあり、見ごたえがありました。

檀寺の「如々山 不動寺」には

毎年、決まった時期に餅まきがある地域の檀寺程度の認識でした

二つの「那須与一」の墓とされる供養塔

この宝篋印塔は昔からありましたが、そんなに気に留めることもありませんでした。確かに、鎌倉時代の物と言われている供養塔は古く、歴史学者から「鎌倉時代のもの」とのお墨付きを頂いているとのこと

さて、この紀南地方で古い「如々山 不動寺」ですが、今は、本堂と庫裡しか残っておりません。しかし、地名にはいくつものお堂の名前が残っており、かつては大寺院だったことが伺えます。寺の場所からは、長尾坂や遥か先には、田辺湾まで見渡せるぐらい高い場所にあります

今一度 様々な伝承を一つにまとめてみると

  • 地区の中心を通る熊野古道は、昔は主要道であり、おおいに賑わった
  • 不動寺には、那須与一の墓?供養塔?が二つある
  • 那須定守という人物が、「地頭」として長野に来る
  • 那須定守は禅寺を不動寺と改め、七堂伽藍の大寺院に作り変える
  • 不動寺周辺にお堂や塔などの地名が残る
  • 那須定守が寺内など三か所に梛を植える
  • 那須定守が那須八幡神社と長福寺(光福寺)を作る
  • 那須八幡神社の祝詞が、光福寺に存在する
  • 古城という地名が残る。ここに那須定守が城を作る。
  • 上三栖にエコン城という城を作り拠点を移す。その麓に館がある
  • 1418年に熊野本宮勢との間に「田辺合戦」が起こる
  • 同、「大瀬の戦い」にて那須定守一族が全滅する
  • 熊野本宮勢に不動寺を焼かれる
  • その際に、那須与一供養塔などを住民が運び出す

そこで、いくつかの疑問が出てくる

山城渡りQ
山城渡りQ

いろいろな疑問が・・・

  • そんなに簡単に地頭に就任することが出来たのか
  • なぜ、城を築き、寺を拡張する必要があったのか
  • そもそもそれだけの財力はどこから?
山城渡りQ
山城渡りQ

ここは、もっと広く検証してみる必要がある

≪新説≫ 那須与一 と 熊野古道 定守伝 ~紀州那須氏の興亡~

登場人物の紹介

≪新説≫那須与一 世界遺産「熊野古道 長尾坂と潮見峠越」-後編- へ続く

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