基本情報
形態:山城
標高:190m
城の整備:駐車場 登城道あり 資料館あり
所要時間:30分
訪問日:2020年10月
駐車場 アクセス
ふもとには、上月歴史資料館と大規模駐車場もあり、安心です。
看板
念願の上月城
戦国時代の秘話の中でも、有名な「尼子勝久と山中鹿之助」の話。その壮絶な物語は、多少は知っていました。そんな中、ようやく登城する機会を得たのでした。
これは、、、
。。。壮絶
まずは、資料館を訪れ、だいたいの知識を学ぶ。そして、登り口にあるしっかりとした看板を熟読。ちょっと文字数が多いですが、それだけ重要なことが書かれているということ
第一次上月城の戦い
天正五年(1577年)に、羽柴秀吉軍15,000に対する毛利・宇喜多軍は10,000で対抗。
しかし、羽柴勢は、援軍の宇喜多勢を払いのけ、三ヶ月に及ぶ籠城戦の末、城主の赤松政範を自害に追い込んだものの、城中将士の投降を許さず、全員の首を刎ね、200人の非戦闘民のうち女性は串刺し、子供は磔で国境付近にさらしたという。
そこまでやる!?
第二次上月城の戦い
その後、上月城は「尼子勝久と山中鹿之助」に預けられたが、宇喜多勢の攻撃に一度退いたが、再び取り戻す。この辺りの攻防を考えると、尼子家の再興が掛かった
必死さ
が伝わる。
しかし、翌天正六年(1578年)には、今度は毛利勢が30,000~60,000の大軍で上月城に押し寄せた。これに対する羽柴勢は、10,000であった。しかし、播磨・三木城の別所長治謀反により、撤退を余儀なくされた羽柴勢は、上月城を見捨てることに。。。
別所長治謀反というよりももともと、この3倍以上の兵力差ではどうしようもありません。援軍が少なすぎた。ということは、あとはどうなるか。。。
追悼碑
登城口奥に、尼子勝久や山中鹿之助の追悼碑があります。もうこの時点で、結末は分かります。
城域に入る
休郭(やすみぐるわ)
堀切跡
主郭
すぐに主郭
に到着します。そんな簡単に主郭に到着しても良いのですかってぐらい、すぐに着きます。
ちょっと、下りその先の馬場らしき場所の先には
第二郭
に到着。以上です。
気付き
ハッキリ言って、「小城」です。取った取られたの歴史的背景から考えると城は、どんどん防備強化され技巧的になり、堅城となるはずですが、見た限り特に技巧的な部分も少ない。
通常、織田の支配下であれば、石垣を築く時間は無くても、虎口や畝状竪堀や空堀がすぐに出来上がってもおかしくありません。しかし、そうではないのです。となると、大軍で攻められたらすぐに落城することは容易に考えられます。
当ブログは、あまり人物に焦点を当てていませんが、急ごしらえの寡兵で毛利の大軍に臨まないといけないとなると、この城を守り抜かなければならなかった「尼子勝久と山中鹿之助」は、非常に心細かっただろうと思います。
とてもそう思います
しかし、第一次上月城の戦いであれだけの非道を行った秀吉が、この城の重要性は分かっていたはずですし、防備強化で手を抜くでしょうか。理由はわかりませんが、この辺りの統治が上手くいってなかったことなどもありそうです。
その後の山中鹿之助は
山中鹿之助墓
結局、第二次上月城の戦いで尼子勝久は切腹、山中鹿之助は捉えらえ、備中松山城に輸送される際、ここ「阿井の渡場」で暗殺されてしまい、ここに名門・尼子家は途絶えたのでした。ん~悲哀ですよね。
胴墓
胴墓の看板のところにあるのは、相撲取りの墓ですのでお間違えの無きよう。
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