香川

【香川県】皇踏山城 (1/3)謎の石塁編 異形の山城 これまでの経験を乱される 

いざ、小豆島へ

ついに、相棒のMINIと一緒に、女子旅でも人気の「小豆島」へ。小豆島と言えば、

道の駅小豆島オリーブ公園 ギリシャ風車

こんなとか

道の駅小豆島オリーブ公園 オリーブ原木

こんなとか

空飛ぶホウキ掛け

こんなとかですが。目的地は、そこではございません。

「小豆島にも山城がある」
「皇踏山城」と「星ケ城」という変わった名前の山城
「2つの城とも本土のモノとは少し様子が違う」

という情報があり、この目で確かめようと訪れたのでした。目的は、どちらかというと「星ケ城」だったため、「皇踏山城」は立ち寄る程度の旅程でした。しかし、訪れてみて、全くもって

山城Q
山城Q

消化不良

な旅になったのです。そこから「古代山城の沼」にドップリハマっていったのでした。

基本情報

 形態:山城 
 史跡指定:国の指定史跡
 標高:394m
 城の整備:登山道あり 
 所要時間:往復2時間
 訪問日:2020.03

駐車場 アクセス

八坂神社周辺に駐車場を見つけて停めさせていただきました。

地質を確認

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

地質を確認すると、あることに気が付きます。この色のパターンは、

山城Q
山城Q

高松周辺の山城と同じ

高松周辺の独特の地形。

かつての火山活動の関係から、

山頂に「讃岐岩質安山岩」が乗っかっており、
その下の黄色い層は「凝灰岩・凝灰角礫岩」、
下層の基盤は「花崗岩」

の順となります。

花崗岩は、雨風にもろく風化が著しい。しかし、山頂に安山岩が水平に乗っかているために、周りの花崗岩が浸食されても、傘の下は崩れないでそのまま残るというわけです。

メサとビュートの違いは、

硬い地層がテーブル状の形に残った土地を「メサ」、
塔のように残った土地を「ビュート」

と分けて考えます。つまり、この皇踏山城も

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

高松周辺にある古代山城「讃岐城山城」「屋嶋城」と同じ「メサ地質」であるということが見て取れます。事前調査では、この山城は「古代山城」「戦国時代の山城」「中世の山城」など様々な解釈があるようですが、

山城Q
山城Q

なんか怪しい

鳥瞰図 縄張り図

この位置に看板地図があります。

いくつかの地図が存在しますが、この地図が一番、分かりやすいと思います。形としては、屋嶋のようなトンガッタ岬のような感じ。そして、中央部にいろいろな遺構跡があるようです。

そして、なにやら、縦横無尽に石垣?が連続して続いています。

赤枠内に空堀・土塁・大手道・一の曲輪・二の曲輪・水の手曲輪等々の名称がごちゃごちゃとみえます。「皇踏山」というぐらいの名称ですから、誰か皇族が登頂したのでしょうか。とりあえず、登ってみることに

皇踏山の概略

もとは、「大戸山」とか「青門山」とか言ったようです。古くから「山城伝説」が残るらしく「まぼろしの城」だということです。

城域に入る

山城Q
山城Q

猫がしばらく付いてきました

滝宮ベース(みんなの秘密基地)側から道順に上っていきます。結構な斜面です。気が付くと、

山城Q
山城Q

石積み?

道順脇の茂みの中に、何本かの小さな石積み列などを見かけます。え!もう始まった?

謎の大規模石積群

山城Q
山城Q

え!?

どこまで続く石積みが目に飛び込んでくるのでした。

何これ??

山城Q
山城Q

なんだこれは!!

山頂に近づくにつれ、謎の長大な石塁。

わけがわからずテンションMAX!石垣好きならたぶんみんなそうなります。一体、これはなんだ?
どこからどこまで続くものなんだろうか。先が分からない。実は、、、

正体は「しし垣」

これらは「しし垣」という石塁で、江戸時代に「猪」や「鹿」から作物を守るために造られたものだということです。

小豆島にある「しし垣」の総延長は

山城Q
山城Q

百数十キロ

に及ぶというもので、小豆島全域に広がっており、「橘峠のしし垣」「長崎地区のしし垣」が特に有名とのこと。ここは山頂部1.5㎞程度です。

江戸時代の古記録にも、しし垣は登場する。寛政期のはじめ「里正村上彦三郎」という人物が、島40村落を説得し、わずかな期間での大工事の末に完成させたとの文献もあります。

島しょでの鳥獣被害は、現代人が思う以上にかなり深刻だったようでです。

~参考~

長崎県「対馬」でも、似たような鳥獣被害の話があります

江戸時代に「陶山訥庵(すやま・とつあん)」という奉行により農作物をイノシシの害から守るために、実施されたイノシシの全滅計画「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」が有名です。

「陶山訥庵(すやま・とつあん)」
対馬藩の儒医陶山玄育の子として対馬府中(厳原)に生まれ、
1699年(元禄12年)に、第3代藩主宗義真の下で対馬藩郡奉行に就任。「人よりも猪が多い」と言われた対馬で、10年の歳月をかけ、8万頭の猪を退治し、全滅させた。

対馬にある陶山訥庵が眠るお寺
対馬にある陶山訥庵のお墓

実は、管理人は、この「陶山訥庵のお墓」を訪れたことがあります。

つまり、

山城渡りQ
山城渡りQ

しし垣は、山城の石垣ではない

ということで、しし垣と山城は分けて考えないと、「本質」を見誤ることになりそうです。しかし、極端な話、これ目的に、追いかけて見て回っても楽しいです。

たまにこのような「囲い遺構」があります。この用途はなんなのか不明。

何が面白いかというと、このしし垣は、山中の地形に関係なく「縦横無尽」なのです。その「読めなさぶり」が非常に面白いです。

これが登り口にあった看板に書かれていた石塁は、これらのことだったのです。

中世や戦国時代の石垣ではなく「しし垣」だと分かっていても、

「やはり、もしかして、もしかして、、、山城の石垣なんじゃないのか」と思ってしまいます。それほど圧巻のスケールです。

山城の石垣の視点からは外れますが、これを積んだ江戸時代の島人の努力は並大抵の物ではなかったはずです。

しかし、年々、このシシ垣への関心は薄れ、開発や風化で人々の記憶から消えつつあると、全ての文献で書かれていました。

山城渡りQ
山城渡りQ

非常に惜しい

当ブログのテーマでもある「ツーリズム(目的をもった観光)」では、このしし垣を見て歩くことも、その土地の文化に触れる貴重な体験になると思います。

山城Q
山城Q

巨大しし垣の城 皇踏山城

とかすれば、差別化はできます。

※参考文献:
 皇踏山城資料/猪垣遺跡考(斎藤忠) 日本古代遺跡の研究-論考編 1976
 猪鹿垣遺構を残し伝えるために-(港誠吾)日本のシシ垣(高橋春成)2010
 皇踏山城資料/小豆島町の文化財P46,47

遠望

さて、城の東側の二番目の高さの位置に展望台があります。

この展望台あたりが、追える「しし垣」の端って感じです。それにしても、ここの眺めはスゴイです。瀬戸内海は当然、四国地方まで見渡すことができます。

右の平らな山頂は、屋嶋です。

ん?この風景はどこかで

「しし垣」の物量に圧倒されながら、さらに東側の展望所から眺めてみました。

改めて南側の下方を眺めると、女子が大好きなエンジェルロードが分かります。ほんとキレイです。そして、ついでに西側を見かけたその時、

山城渡りQ
山城渡りQ

お!

この風景は、どこかで見たことがある。そう長崎県対馬の金田城でみた山頂の風景です。

~ 参考 ~

長嶋県対馬 金田城 山頂の石積み

まさにソックリ。う~ん、これは偶然なのか。こんなのを見てしまうと、やっぱり

山城渡りQ
山城渡りQ

腑に落ちない

なるほど。この皇踏山城は、「謎の城」「まぼろしの城」「経歴不明の城」と言われるだけあって、完全に消化不良。

検証してみた

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

そこで、「メサ台地」確認でしようした地図の範囲をもっと広げてみました。

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

そういえば、岡山の古代山城との立地も気になったところ、

山城Q
山城Q

何やら等間隔!

だということに気が付きました。そこで、距離を測ってみたところ

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

20km前後の距離です。これは果たして偶然なのだろうか。しし垣は、確かに中世山城とは無関係だとわかりましたが、果たして古代山城とは無関係なのでしょうか。

しかし、この時の訪問は、時間的制約があったのでこれで一旦終了となりました。

調査報告書を取り寄せる

この山城について、「中世の山城である」と世間の評価は固まりつつあるようですが、管理人としては、「何かもっと謎が隠されているのではないか」と興味を抱きました。

そこで、「一次情報に触れてみよう」と考えました。そもそも「中世の山城である」という情報の出所はどこなのだろうかと。誰が言い始めたのでしょうか。

すると、上記の調査報告書の存在に行きつきました。

そこで、本書が「AMAZON」で販売されているのを見つけ(AMAZONすげえ~)、早速取り寄せ、中身を熟読してみたのでした。すると、たくさんの新事実が判明しました。感想としては、

山城Q
山城Q

「当時の認識」

「スーパーアドバイザー」
「足らない点」

があるように感じました。特に、「スーパーアドバイザー」の名前を見た時は、おもわず「え!」と非常に驚きました。

この方は、既に昭和60年頃には「業界有名人」であり、「中世城郭研究の第一人者」として活躍されていたことが伺えます。そら~~この方が、この城を評価したら

山城Q
山城Q

戦国期の山城

になってしまいます。果たして、この山は一体なんなのか。古代山城なのか、中世山城なのか。「その2」に続く・・・

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