山形

長谷堂城(山形県山形市)|山体崩壊と蔵王温泉

山城ACTレベル:初級 ★☆☆ 
山城Wレベル:W2 ★★☆

長谷堂城の遠景

この山城の魅力|3つのポイント

① 体験価値(ウェルネス)

短時間で登れる独立丘陵でありながら、帯曲輪や土塁をたどるリズミカルなアップダウンが続き、「軽い山歩き+城歩き」を一度に味わえます。観音堂や庚申塔などの信仰空間も点在し、戦いの記憶と祈りの気配の中で呼吸を整えながら景色と向き合える環境です。

② 遺構の固有性

段々に巡らされた帯曲輪群、横矢掛かり、土塁、水堀など、土の城らしい防御構造がコンパクトに集約されています。案内看板が多く、攻防の動線をイメージしながら歩ける「学びやすい実戦城郭」としても貴重です。

③ 景観・地形の固有性

比高約90mの小丘ながら、主郭からは出羽盆地と周囲の山並みを四方に見渡せます。蔵王火山活動に由来する岩屑なだれ堆積物(酢川岩屑流)が広がる一帯に形成された独立丘陵上に築かれており、火山地形と城郭が重なる立地が大きな特徴です。

現地レポート

長谷堂城跡の現地案内板
現地案内板
長谷堂城跡の解説看板
現地案内板

現地看板は、豊富です。「直江兼続を退けた」と大きく書かれています。

遠望

長谷堂城の丘を遠望した様子

標高は229mですが、比高は90mですので、小高い丘という感じ。しかし、岩石で覆われているわけではなく、パッと見攻略が難しい城には思えません。

しかし、あの直江兼続が落とせなかった「難攻不落の城」とされているのですから、守りやすいのだと思います。これに似た丘城では、熊本の「田中城」が近い。ここも土壌は違いますが、独立した丘城です。

「長谷堂城の戦い」 長谷堂城 比高90m 直江兼続軍 2万 VS 志村光安軍 1千

「田中城の戦い」   田中城 比高47m   豊臣軍 1万 VS 和仁軍 1千

共に兵力差は10倍以上ですが、総攻撃でも落ちなかったということは、攻め入る場所が少なく守りが固かったということでしょう。

山城Q
山城Q

熊本の田中城も良いね

城域に入る

長谷堂城の水堀

水堀

この手の丘城では、堀が重要です。

長谷堂城八幡口の様子

八幡口

神社やお堂がありますので、今回は、「八幡口」より入ります。

長谷堂城の帯曲輪群への登り

帯曲輪群

段々になった帯曲輪の斜面

確かに、段々になっています。しかし、これは「帯曲輪」と言ったでしょうか。普通は、このような斜面に竪堀はありますが、段々畑様は珍しいかもしれません。

長谷堂城の土塁の様子

土塁

長谷堂城の土塁と斜面
長谷堂城最大の城内帯曲輪

最大の城内帯曲輪

帯曲輪から見上げる斜面
横矢掛かりの土塁の形状

横矢掛かり

横矢掛かり周辺の森と土塁

あちこちに案内看板があり、丁寧に解説してくれます

長谷堂城主郭部の様子

主郭部

展望

主郭から見渡す出羽盆地の景色

独立した丘城なので、四方が見渡せます。

長谷堂城から望む山並み
直江兼続本陣跡の案内板と周辺

直江兼続本陣跡

長谷堂城の虎口の様子

虎口

長谷堂城城内の庚申塔

庚申

最上三十三観音 長谷堂

長谷堂観音堂の外観

御本尊は、十一面観世音菩薩 

名前の由来となっているのが、このお堂。すごく信仰心を感じます。

長谷堂城周辺の風景と参道
長谷堂城の城域全体を見下ろす景色

この城の概要

長谷堂城は、出羽国の要地を押さえる丘城で、安土桃山期には最上義光の家臣・志村光安の居城として山形盆地南西の防御線を担いました。慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、直江兼続率いる上杉軍の包囲を籠城戦で退け、「難攻不落」の名が知られるようになります。のちに廃城となり、現在は公園として整備されています。

出典・参照:現地案内板、山形市・山形県公式資料、関連史料 等

山城ACTレベルと山城Wレベル

山城ACTレベル:初級 ★☆☆
標高229m・比高約90mの独立丘陵で、整備された遊歩道と階段状の斜面を登っていく行程です。急な岩場や危険箇所は少なく、ペースを落とせば中高年の方でも無理なく登れます。全体として「軽めの丘歩き+城歩き」といえる負荷のため、ACTレベルは初級(★☆☆)としました。

山城Wレベル:W2 ★★☆
帯曲輪群や横矢掛かり、水堀といった遺構をたどるうちに、「ここでどう守り、どう攻めたのか」というイメージが立ち上がってきます。山頂部には観音堂や庚申塔があり、戦いの舞台でありながら祈りの空気も感じられるため、歩き終えたあとも物語を思い返したくなる城です。ほどよい没入感からW2(★★☆)と判断しました。

主なルート
水堀 → 八幡口 → 帯曲輪群 → 主郭部を周回するルートで、おおむね1時間前後が目安です。

累積標高差と所要時間
累積標高差:比高約90mの登り下り / 所要時間:往復おおむね1時間前後

地形・地質のポイント

西国から、遥か遠くまでやってきたものです。とにかく遠かった。しかし、ここは関ヶ原合戦の折、西軍の上杉景勝軍が、東軍の最上義光軍を侵攻した「慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)」でも有名な場所。

特徴的な形の山城ですが、周辺の地質を見てみればちょっと面白いことに気が付きました。

長谷堂城周辺の地質図
引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

これを見ただけでも、お分かりの方がいるかもしれません。ちょっとおかしいところがあります。実際に、「長谷堂城」自体は、立派な河岸段丘ですが、その周辺の地質は、

山城Q
山城Q

岩屑(がんせつ)なだれ堆積物

とあります。「岩屑(がんせつ)なだれ堆積物」ってどういうことなのか。。。なだれ??どっかから土砂が「なだれ」のように流れてきたというわけです。少し西に目をやりますと

鳥兜山周辺の地形と地質図
引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

この赤枠の部分です。この部分は、明らかにエグレタ感じに見えます。そして、この赤枠内部だけ地表で近くで急速に固まった「玄武岩」が存在し、何か火山活動があったように見て取れました。

調べてみますとこれは、

山城Q
山城Q

山体崩壊跡

とのことです。

山体崩壊範囲を示した地質図
引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

つまり、約4万年~7万年前に起こった「鳥兜山」~「滝山」~「横倉岳」にかけて径2.5kmの山腹が大きく崩壊。崩壊した堆積土の全量は2、3立方キロメートル。

酢川岩屑流堆積物の広がりを示す図
引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

黒線辺りまで、土砂が流れてきたというわけです。なんとすごい。また、この「岩屑(がんせつ)なだれ」では、コロコロと岩石が転がり、その末端へ移動し、何かのキッカケに伴い「はなれ山」という小高い丘山を形成。

岩屑なだれとはなれ山の概念図

ちょうど長谷堂城ある場所は、「岩屑(がんせつ)なだれ」の端であります。その堆積層には名前が付いており、地域の名前から「酢川岩屑流堆積物」と言うようです。

周辺は「酢川岩屑流堆積物」ですので、これは「はなれ山」の一部であるのではないだろうかとも考えます。(河岸段丘が先か、山体崩壊が先かは不明ですが)

山城Q
山城Q

はなれ山は、時間が経つと丸くなるらしい

要するに、長谷堂城は「巨大な土砂なだれの端にできたはなれ山の上に築かれた丘城」とイメージしてもらうと分かりやすいです。

参考:日本火山学会第五回公開講座 山形大学理学部教授 大場与志男氏

岐阜県に「帰雲城」という城があります

それにしても、このような”山体崩壊”は他地区でも聞いたことがあります。それは、

山城Q
山城Q

岐阜県 帰雲城

岐阜県帰雲城跡の風景

岐阜県 帰雲(かえりくも)城

どこかメルヘンな響きがあり、個人的にも印象に残っている城名です。

帰雲城周辺の山肌の様子

1586年(天正13年)の天正地震による山崩れで、城と城下町が全て埋没し、城主だった「内ヶ島氏」は滅亡。しかも実際に、どこにあったのか場所もよく分からない「幻の城」。それが「帰雲城」。

山体崩壊跡の斜面の様子

こう見てみると、土砂がガサっと滑り落ちています。実際は、”山体崩壊”による”山津波”で滅亡したのでしょう。埋蔵金のウワサもあり、これぞまさに

インディージョーンズの世界。

長谷堂城が一押しの理由

① 先史時代の大規模山体崩壊(鳥兜山〜滝山〜横倉岳)

約4〜7万年前、鳥兜山・滝山・横倉岳にかけて径約2.5km規模の山体崩壊が発生し、莫大な土砂が一体となって流下。崩壊堆積物は岩屑なだれとして広範囲に広がり、末端部には小高い丘状地形(はなれ山)が形成されたとされます。

長谷堂城の丘は、この崩壊堆積域の縁辺に位置しており、独立丘陵の成立に深く関与した可能性があります。

② 近世・破城に伴う斜面崩壊(長谷堂城の土砂災害)

城の廃絶過程や周辺環境変化により、斜面の一部で土砂崩れが生じた記録が伝わります。堆積性の地盤は風化や浸食に影響されやすく、局所的な崩壊を繰り返しやすい性質を持ちます。

すなわち、長谷堂城は「堆積して形成された山」という地質的特徴の上に築かれていたため、地形として脆弱性を内包していたと読み取れます。

この二重の災害史は、長谷堂城の立地を「偶然の丘」ではなく「地球史と人間史が交差する必然の高まり」として捉える新しい解釈を示します。

アクセス・駐車場

駐車場:長谷堂城跡公園入口に無料駐車場あり。
登城道:八幡口・内町口から周回可能。

まとめ

長谷堂城は、戦国史と火山地形が重なる稀有な丘城です。

先史の大規模山体崩壊と近世の局所崩壊という「二度の土砂災害」が、その独立丘陵と城の性格を規定しました。帯曲輪や土塁をたどる歩行体験と、蔵王温泉という地形の贈与を組み合わせることで、地形・歴史・ウェルネスが静かに響き合う一日が完成します。

初心者・中高年でも歩きやすいACT★1の城として、学びと癒やしの両立を楽しめる場所です。

周辺観光・温泉(地域共鳴)

「山体崩壊」の副産物 蔵王温泉

蔵王温泉周辺の地質図
引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

山形県最大の温泉が「蔵王温泉」。”山体崩壊”が起き、大きく陥没した場所に蔵王温泉があります。標高900メートルの高所に位置する温泉地で、1000年余りの歴史があります。

特徴:

この温泉は、

山城Q
山城Q

珍しい「強酸性泉」

一言でいえば、「刺激の強い個性派の湯」として知られる温泉です。東北地方では比較的見られますが、全国的にはまだ珍しい泉質で、一般に「pH2前後という非常に酸性度」の高い湯として紹介されています。

その強い泉質から、古くから「皮膚によい湯」と語られてきた歴史があり、温泉法に基づく一般的適応症として皮膚に関わる不調などが挙げられることもあります。

ただし刺激が強いため、肌の状態によっては合わない場合もあり、長時間の入浴や身体の洗浄は控えめにするなど、様子を見ながらの利用が望まれます。

なお、酸性泉は硫黄泉と並び、特定の泉質として制度上の位置づけを持つ温泉でもあり、その性質の強さから「他にはない湯」として注目されてきました。

免責

本記事は個人の体験および公的資料をもとに構成しています。効果や歴史を断定するものではありません。訪問時は最新情報を確認のうえ、安全にご配慮ください。

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