幼少期
小学生の時に観た
に触発されて、小学生ながらに将来の夢は
考古学者になる
と決める。しかし、時代は
「就職(超)氷河期」のど真ん中。最終的に「考古学専攻」「歴史学専攻」という夢は諦める。
しかし、
京都に行けば、何か出来るかもしれない
と考えた管理人でした。
歴史学者 井上 満郎氏の研究室を訪ねる
偶然、通っていた大学に
「平安時代の軍事」
「渡来人の研究」
で、御高名な「井上満郎」氏の在籍を知る。そこで、
「よし、ちょっと研究室を訪れてみよう」
と思い、思い切って訪問したことが、人生に大きく関わることになる。そして、
日本の歴史学者。専攻は日本古代史。渡来人・渡来文化や、平安京について文献史料や考古資料を分析し、
庶民の生活文化の観点から実像に迫る研究を続ける。
遺跡発掘がしたいので、
京都市埋蔵文化財研究所を紹介して下さい
という、めちゃくちゃなお願いをする。今思うと、若さゆえ、学生ならではの思い切った行動でした。すると、井上先生は、
今は、研究所ではアルバイトは募集していないから
私の知り合いの先生を紹介してあげよう
ということで、とある発掘現場に移動したのでした。
元京都市埋蔵文化財研究所職員 家崎 考治氏との出会い
この子が電話したウチの学生
面倒を見てやってもらえる?
京都市内では、建物を建てる際に、地下を発掘調査(緊急発掘)することが条例で決まっていて、
家崎氏(「瓦器(かわら)を研究」)は、その業務を請け負う現場組織の責任者であり、井上氏は、その顧問という関係でした。
ここから、管理者の平日3日~4日/週、京都市内での「遺跡発掘従事業務」が始まったのでした。
京都市内の発掘現場現場。約半年~1年半程度の期間で行う。
発掘作業と言っても実際は、土木作業とほぼ変わりません。重機で真っ平に一面を削った後、全員が四つん這いに一列に並び、
「ガリ」と言われる園芸で使われる器具を使って、一列に地面を削っていくところからスタート。
その中で、土の色が違う場所を見つけると
「先生、先生」
と呼び、検証開始。スプレーでマーキングをし、
「もっと掘って下さい」
「周辺を削って下さい」
と指示を受けさらに作業という仕事。若いからという理由で、井戸内部の発掘作業ばかりやっていました。少し掘り下げては、石を取り出し、また掘り下げる。深さは、背丈以上になることも。
しかも、ここは京都。夏場は非常に暑い。泥まみれになりながら、必死に作業を行っていました。
ちなみに、上記の井戸跡は、石組が施されており、時代は江戸時代以降のモノ。石垣技術が転用されました。それ以前は、木での枠組みでした。
こんなこともありました。当初は、「井戸かな」と思い、ちょっと大きめの穴を掘っていた時、底で「常滑焼の大甕」が出土。
常滑焼は、非常に大きい物もあります。そして、昔の用途の一つは、
「トイレ」
というものがありました。つまり、ここは中世人のトイレの跡。
なんということだ
そんなこともありながら、この時は、甕底から「古銭」が6枚出土。汚物という穢れを古銭で浄化しただの、服をめくりあげた時に落としただの議論が巻き起こったのを覚えています。
先ほどの常滑焼のトイレは左上、しかし、下には多数の井戸跡。時代が変われば、何があるかは、もはやわからないのが、京都という土地の地下。
別の場所では、ある時代は大規模墓地だが、別の時代では、普通に宅地というのもありました。
京都の土壌性質の関係で、人骨はあまり出てきませんでした。(山科地区では人骨が出たことがあります)
何もない地面を器材で削り取り、わずかな土の違いで掘り方を変えるという職人芸。掘り過ぎると次の時代の層に当たってしまい良くない。
この手の土器(土師器)は、いくらでも出てきます。御所の蛤御門周辺を調査した際には、焦土層がキレイに出土し、有名な「蛤御門の変」を実感したことなんかも。
が、しかし、これは違いました。
これは、弥生式土器の一部です
京都の地下は「弥生時代」までさかのぼることができます。土器は赤褐色で、本当に赤かったです。これが出たときは、正直感動しました。
今、考古学に触れている!
地質学者 能田 成氏との出会い
管理者は、昔から化石も大好きでした。特に貝系がアンモナイトとか二枚貝とか巻貝とか。中学生時代に、地元でも地層や海岸で探索&発掘をしておりました。
大学では、専門教育とは別に、一般教育課程も「歴史」「地球史」に絞り込んだため、
「地球史」
という講義を2年間連続受講しました。
地質学者 研究分野:地質学 地質学一般 固体地球物理学 1979年、1984年アメリカ合州国カリフォルニア理工科大学客員研究員 出版物:『地球科学の窓』(共著、三和書房、1996年)、『日本海はどう出来たか』(ナカニシヤ出版、2008年)など
特にフィールドワークが多く、あちこちの山に登り地質の話を聞いていました。そんなちょっとマニアックなゼミだったある日、先生より、
今度の夏に、アメリカのアリゾナ砂漠(だったと思います)に恐竜が絶滅した際の隕石分布で地質調査に行くから、一緒に来ない?
的なことを言われる。しかし、当時、家庭の事情で夏は家業を手伝うことになっていたため、
家庭の事情で辞退します
と断ったのでした。これに付いて行っていると管理者の人生も変わっていたなあと思います。
そして、就職は、、、
しかし、時代は就職超氷河期のロスジェネど真ん中。学生時代に熱中したこととは、全く違う業界と仕事を選んだのでした。
観光カリスマ 山田桂一郎 氏との出会い
派遣社員として、移動や転勤で全国を数年で飛び回り、休みの日は、山城に登ることが休日ライフワークになっていました。
~ ある一日のスケジュール ~
1.早朝の日の出と共に、山城に登る
2.15時に切り上げ、山城の麓の町内や武家屋敷や観光地を散策
3.夕方、食事や温泉に入って帰る
そんな中、あることに気がつきました。
何か学問があるのではないか
と思いちょっとネットで調べてみたところ、
「観光学」
というキーワードがヒットしたのでした。
しかも、より深く調べると環境庁と和歌山大学共催による「オープン講座」で「南紀熊野観光塾 第一期生募集」という募集要項が目に留まったのでした。
1987年 ツェルマット観光局
1992年 JTIC.SWISS(日本語インフォメーションセンター)設立
2004年 特定非営利活動法人 日本エコツーリズム協会 理事
2005年 内閣府、国土交通省、農林水産省認定 観光カリスマ ※略歴一部抜粋
第一期生として、「観光カリスマ」指導のもと、先進的な成功している観光地の事例だけではなく、地域が抱える課題や問題を共有し、約半年間「観光学」を科学したのでした。
選ばれ続ける地域になるための方策を議論しました
そこで「エコツーリズム」という概念を学びました。
さらに「山城登り」をアクティビティとして捉え、「アドベンチャーツーリズム」として、単に山城に登るのではなく、自然や地域文化の象徴としての「山城の価値・気付き」を発信したいと考えるようになりました。
地方でよく聞く
・うちには何もない
・山と川と谷しかない
・昔から当たり前にある
は、地元の人にとっては当たり前でも、実は都市の人や外国人には非常に新鮮に映ります。
原因は、情報発信が足らないことにあると考え、自身が「見た」「聞いた」「感じた」ことをブログとして紹介することで、交流人口を増やすキッカケになればと考えております。
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