
はじめに

新府城を歩いていると、不思議な違和感が残ります。
見どころが少ないからでも、遺構が分かりにくいからでもありません。むしろ、随所に工夫があり、築城者の意図ははっきりと伝わってきます。
東西に配置された出構、長く伸びる空堀、大手の枡形虎口。
どれも無駄がなく、行き当たりばったりで作られた城ではないことは明らかです。武田流築城術の合理性が、そのまま地形に表れています。
歩きやすく、導線も整理されている。
本丸の位置も分かりやすく、城としての骨格はすでに整っている。
それでも、「完成した城を歩いている」という感触がどうしても湧いてこない。
この感覚こそが、新府城という場所の核心だと感じました。
時代と噛み合わない城のかたち

新府城が築かれた天正9年(1581年)は、城のあり方が大きく変わり始めていた時期です。
この程度の標高を持つ丘城であれば、石垣で城を固め、麓に城下町を形成し、政治と軍事の拠点を一体化させる。そうした構えが、各地で現れ始めていました。
ところが新府城は、その方向を選びませんでした。
石垣化を前提とした造成の痕跡は見られず、城下町を抱え込む構えも想定されていない。その一方で、巨大な三日月堀や出構といった、強く戦術に寄った防御構造が目に入ります。
城として腰を据えるには、やや過剰にも見える堀。
しかし拠点城郭として考えると、どこか踏み込みが足りない。
丘城としては戦いに寄せすぎている。それでいて、最前線の臨時拠点とも言い切れない。このちぐはぐさが、新府城を歩いたときの印象を決定づけています。
「これは完成しているが、完成形ではなかった」

注目すべきなのは、新府城に方向転換の痕跡がほとんど見られない点です。別の形式へ移行しようとした形跡も、途中で構想を変えたような様子もありません。
最初から最後まで、一貫して武田流築城術でまとめようとしている。それは遅れや妥協ではなく、あえて変えなかったという選択だったように思えます。
出構や空堀の配置、整理された城内構成は、武田流築城術を極限まで洗練させようとした結果でしょう。要害山城で積み重ねてきた考え方を、平山城の規模にそのまま持ち込んだ。その到達点が、新府城だった。
だからこそ、この城には破綻がありません。構造も思想も、きちんと完成している。それでも違和感が消えないのは、その完成の方向が、時代の流れと一致していなかったからです。
もし新府城が、甲府から完全に拠点を移すための城であったなら。もし本当に、ここを新たな中心として据える覚悟があったなら。この構えにはならなかったはずです。
巨大な三日月堀は、未来に向けた設備というより、「今この状況をどうにか凌ぐため」の構えに見えます。
新府城は、前へ進む城でもなく、守り切る城でもなかった。変わりゆく時代の中で、武田流のやり方を貫いた結果、その思想だけが地形として残った城。
新府城は、完成している。
ただし、時代の完成形ではなかった。
この一言に、この城の本質が集約されているように思います。






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