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≪新説≫ 那須与一と熊野古道 定守伝 ~紀州那須氏の興亡~(上)

紀州那須氏とは

紀州那須氏とは、那須与一の系譜・伝承と結びつきながら、紀伊国田辺周辺および熊野古道沿線に痕跡を残した那須姓一族、あるいはその伝承圏を指す呼称です。
地域では、与一の末孫とされる那須定守の来訪、不動寺の建立、供養塔の存在を核として語り継がれてきました。
史料的な確定度は高いとは言えないものの、口伝・寺社縁起・地域史の積層によって、紀州における那須氏の存在は重層的に記憶されています。
主な登城人物
北朝室町幕府方




南朝吉野朝廷方



那須定守 登場








那須与一公供養塔 発見









時代背景


1336年(建武3年)、後醍醐天皇の建武政権が崩壊し、日本の朝廷は南朝と北朝に分裂しました。
足利尊氏は京都で光明天皇を擁立し、これが北朝の始まりとなります。
一方、後醍醐天皇は吉野へ移り南朝を開き、正統性を主張しました。
以後、およそ60年にわたり、日本各地で政治的・軍事的対立が続くことになります。

南北合一とは、南朝と北朝に分裂していた皇統が、1392年(明徳3年)に統一された出来事です。
室町幕府第3代将軍・足利義満の仲介により、南朝の後亀山天皇が三種の神器を北朝へ譲渡しました。
これにより皇位は北朝系に一本化され、約60年続いた内乱は形式上終結します。
ただし南朝側は「両統迭立(交互即位)」を条件としており、完全な合意とは言い切れず、正統性をめぐる議論は後世に残りました。
室町幕府 三代将軍 足利義満

足利義満は室町幕府第3代将軍で、将軍権力を最盛期へと導いた人物です。
在職中に幕府権力を確立し、朝廷・公家・寺社・守護大名を巧みに統制しました。1392年には南北朝の分裂を終わらせ、南北合一を実現しています。
また明との勘合貿易を開始し、日本の国際的地位を高めました。晩年には金閣(鹿苑寺)を建立し、政治と文化の両面で大きな影響を残しました。
1399年(応永6年)応永の乱 勃発


応永の乱は、1399年(応永6年)に起こった室町幕府と有力守護大名との対立です。
将軍・足利義満は、独自外交と軍事力を強めた大内義弘の討伐に踏み切りました。
義弘は堺で挙兵しますが戦局は不利となり、自害して乱は終結します。
この乱により、義満の将軍権力はいっそう強化されました。
畠山基国・満家親子の台頭

応永の乱では、畠山基国・満家父子は将軍 足利義満側として行動しました。
畠山氏は畿内に勢力を持つ有力守護であり、軍事行動と政治的圧力の両面で幕府を支えました。
この戦いを通じて畠山氏は将軍権力との結びつきを強め、室町前期の畿内有力守護としての地位を安定させます。

南下政策


二つの強力な土豪武士団


紀南地域の山本氏・愛洲氏は、熊野・田辺周辺を基盤とした在地武士層です。
山本氏は山間部や交通路の掌握を、愛洲氏は沿岸部や水軍的要素と関わったとされ、守護勢力の下で地域支配の実務を担いました。
こうした在地勢力の存在が、紀南地域の政治的・軍事的特性を形づくっています。




紀南の山本氏・愛洲氏は、南北朝期から室町中期にかけて独自の立場を保った在地武士団でした。
1333年には山本忠行が護良親王とともに上洛し、以後、南朝への強い忠誠を示します。
南北合一後も対立は収束せず、幕府方との戦闘が断続的に続きました。理念として南朝を保ちつつ、現実対応を重ねた勢力であった点が特徴です。
室町幕府はある男に託したのだった











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