山城ACTレベル:上級 ★★★
山城Wレベル:W3 ★★★

この山城の魅力|3つのポイント
① 体験価値(ウェルネス)
登り始めから砂利まじりの急斜面が続き、息が上がりつつも一歩ずつ高度を稼いでいく「本気の山城ハイク」です。
② 遺構の固有性
砥石城は、米山城・本城・枡形城が連なる尾根筋全体を防御ラインとした、段丘利用型の山城群です。
本城周辺の段郭や馬場、枡形城の小さな枡形門、道中に点在する石垣状の砂岩(砂岩:砂が固まった岩)や列石など、「地形と地層をそのまま活かした城づくり」が体感できるのが特徴です。
③ 景観・地形の固有性(フォッサマグナのど真ん中)
砥石城は、フォッサマグナ(本州中央を走る大きな地の溝)のど真ん中に位置し、泥岩・砂岩・礫岩(礫岩:小石が固まった岩)などの海成層(海でたまった地層)の上に築かれた山城です。
登りづらい砂利の斜面や、龍の背びれのように連なる砂岩列は、「2000万年前の海の底の名残」を足元に感じさせてくれる、地質好きにはたまらないフィールドです。

山城ACTレベルと山城Wレベル
山城ACTレベル:上級 ★★★
登山口からいきなり砂利まじりの急斜面が続き、浮石も多く滑りやすい登りが30分ほど続きます。その後も米山城 → 砥石城 → 本城 → 枡形城と、尾根上で細かなアップダウンが連続します。全体として「本格的な山城登山」といえる負荷のため、ACTレベルは上級(★★★)としました。
山城Wレベル:W3 ★★★
砥石城までの苦しい登りと、尾根上に連なる米山城・本城・枡形城をたどる道のりが、「地形そのものが防御になる山城」の世界へ深く入り込ませてくれます。砕けた泥岩・砂岩の滑りやすさを実感しながら歩くことで、「砥石崩れ」の一節が身体感覚と結びつき、下山後も余韻が続くフィールドです。没入感の深さから、W3(★★★)と判断しました。
主なルート
登山口・山門 → 急斜面の登城道 → 分岐から米山城 → 分岐に戻り砥石城 → 本城・馬場・段郭 → 北端の枡形城を経て折り返し(全体でおおよそ2時間30分前後)
累積標高差と所要時間
累積標高差:本格的な登山と同程度の登りと下りが続くコース / 所要時間:米山城〜砥石城〜本城〜枡形城を通しで歩いて、おおよそ2時間30分が目安です。
遠望

左から米山城、砥石城、中間地点が本城、右が枡形城となります。なかなかの急こう配です。
縄張り図 現地看板


現地レポート
山門

なんとも、挑戦的な石碑です。が、しかし、後ほど「まさにその通り」と思わず言いたい展開になります。この時は、余裕だと思っていました。

海賊なのか山賊なのかよくわからないマスコットが迎えてくれます。とにかく、ここからいざ登城です。
苦しい登城道

この道です。約30分ぐらい登ります。なんせ、登りづらい登りづらい。浮石も多く滑る滑る。

「地質項」で説明した通り、泥岩が砂や砂利となっており、登ることを拒んでいます。
今は、グリップの強力な登山靴なので、なんとか登れますが、戦国時代は、ワラジや草履だと考えたら、かなり苦労したことでしょう。
これが、この難攻不落城の

正体
ではないかと思えるくらいです。
分岐から米山城へ




なかなかのシビアな登城道。ロープなしには登ることができません。とにかく滑るのです。時間的には10分少々ってところですが。
一般的に下りの方が滑るので、膝に不安がある方はストックを推奨します
米山城


主郭部はそんなに技巧的ではないです。出城って感じですね。ちょっと古いかもしれません。

「村上義清公之碑」が立っております。ここはかつては、村上義清公のお城だそうです。
砥石城へ移動
さっきの分岐から今度は、右の砥石城の方面へ行こうとしているのですが、この道がまだ続く。武田家が実際にどこまで侵入したのかわかりませんが、これは足軽は苦労する。本当に。


普段、ロープとかあんまり使いませんが、この時は必要でした。あった方がスムーズです。

そして、この七曲り階段。

先が見えない
かなり気力を削がれる~。しかも、管理者の歩幅と、階段の間隔が合わないときた。ストレスフル。

たまに、このような砂岩?の岩がまるで石垣のようにあります。これは、堆積層が傾いているってことでしょう。
砂岩を加工した階段

これは、石工と城主のおもてなしです。登りづらいだろと思って作ってくれたものです。福岡の怡土城にもあります。あちらは、花崗岩を加工した階段ですが。

砥石城に到着


展望


本城へ続く
馬場

馬場は広いです。

ここから、一気に技巧的になります。それまでの米山城と砥石城は、砦風の小城という感じでしたが、本城は手間に馬場があり、その先にはしっかりした段郭が迎えてくれます。

石垣なども


お約束の矢竹の藪

結構、あちこちにあります。いつも思うのですが、本当にこれで矢が造れたのかどうか。
枡形城へ
そして、さらに尾根道を進みます。歩きやすい!



北端の枡形城に到着しました。小城ですが、場所的に詰城ってところでしょうか。
枡形門

確かに、枡形門の形です。山城の枡形なので、形も不明瞭なのは仕方がないですね。でも、見られて良かったです。
気になる列石群

この龍の背びれみたいな砂岩列はなんなんでしょうか。堆積したものが横になり上部は削れたということでしょうけど、石垣にもならないし、自然のイタズラみたいな気がしますね。
気づき
山城としては、特に石垣や大規模空堀、堀切があるわけではありません。これまで、数多くの山城に登って来ましたが、これほど砂利に悩まされる城はありませんでした。これが最大の防御の要でしょう。
ま~この砂利も2000万年前の堆積物と思えば、有難いのかもしれませんが。堆積層ならこの城にも「化石」が出てもおかしくないと思いますけどね。


まさにおっしゃる通り!
アクセス・駐車場
車の場合
- 上田市街から砥石城登山口方面へ向かい、案内板に従って山道を進むと、登山口近くの駐車スペースに到着します。
- 駐車場から山門まではすぐですが、その先は本格的な登山道となるため、車を降りた時点で服装や荷物をしっかり整えておきたいところです。
この城の概要
砥石城は、米山城・砥石城・本城・枡形城が尾根上に連なる連郭式山城群で、村上氏の拠点として機能しました。
武田信玄が敗れた「砥石崩れ」の舞台として知られ、急峻な段丘と泥岩・砂岩・礫岩の地質が生む登りにくさそのものが、防御力となった山城です。
地形・地質のポイント
(フォッサマグナと砥石城)

ちょっとおおきな地質図で確認します。すると、上田市を含むエリアになにやら明らかに違う地質が見て取れます。水色です。具体的には、

海成層泥岩!!!
海成層泥岩、、、一体どういうことなんでしょうか。海??
実はなんと、ここは、昔は海の底だったのです。それが年月を経て隆起し、地表に出たということです。つまり、そうです。ここは、

フォッサマグナ帯に含まれる
フォッサマグナとは、日本列島の真ん中には、大地をつくる地層のことで、「大きな溝」があります。ドイツ人の地質学者・ナウマン博士がこの「大きな溝」を発見し『フォッサマグナ』と名づけました。

新第三期の約2000万~1500万年前、中央付近が引き裂かれるようにして非常に深い溝ができました。
この溝は太平洋と日本海をつなぐ海(フォッサマグナの海)となり、深さは数百~数千mにも達しています。長野では長野市や上田市全域が含まれ、松本市が西のキワに当たります。

太古の昔は、日本海側と太平洋側がフォッサマグナで
繋がっていた
フォッサマグナの海には、長い年月をかけて、土砂や海底火山の噴出物が堆積して地層をつくっていきました。そして、深い海が、徐々に埋め立てられて陸になったのです。

ですので、泥岩・砂岩・礫岩が砥石城付近に確認することができます。その堆積層が風化して細かい砂利となり、とにかく滑りやすい登りづらさを生み出しています。
登山道の途中で見られる、石垣のように見える砂岩の壁や、龍の背びれのような砂岩列は、堆積岩の層が傾きながら露出したもので、
「地層そのものを防御ラインとして活用した山城」
としての性格をよく表しています。また、神川が通っており、近場の上田城とは、全く違う性格の段丘を利用した山城であることが見て取れます。
参考文献:
上田盆地の地形発達と上田泥流の起源 富樫 均 ・横山 裕 長野県環境保全研究所研究報告 11:1―8(2015)
フォッサマグナミュージアム ホームページ
千 曲 川 上 流 地 方 の 第 四 紀 地 質 (そ の 3)飯 島南 海 夫 ・山辺 邦 彦 ・甲 田 三 男・石 和 一 夫 ・小宮 山 孝一 地 球科学 23 巻 3 号 (1969年 2 月)など
周辺観光・史跡(地域共鳴)
板垣神社(板垣駿河守信方の墓)
生涯で2回しか負けなかった武田信玄ですが、その一回がこの「砥石崩れ(1550年)」です。実際に来てみて、砥石城の堅城さを実感しました。急斜面で視界が良く、段丘に出来た天然の要害。攻略は難しい。
その際に、「上田原合戦」にて、敵陣に深く入り込み奮戦、下之条付近において壮絶な死を遂げたという武田方の重鎮「板垣信方」。武田二十四将、武田四天王の一人に数えられるとか。
板垣神社 板垣駿河守信方の墓


その御墓が近くにあります。板垣直方は、死後に神になったようです。

印象的だったのは、愛煙家だったらしく、「タバコ」がお供えされていたことです。今でも愛されています。
その他のお墓

周辺には、砥石崩れや上田原合戦に関連する武将たちの墓が点在しており、
これだけの墓所が大切に残されていること自体が、地元の方々が歴史の意味を理解し、大切に受け継いでいる証でもあります。

砥石城の険しい地形を歩いたあとに、こうした墓所を巡ると、戦国の戦いが単なる「戦記物」ではなく、実在の人々の生と死の積み重ねであったことを静かに実感できます。
まとめ
砥石城は、
- フォッサマグナの海成層が生んだ泥岩・砂岩・礫岩の「登りづらさ」
- 米山城・砥石城・本城・枡形城が尾根筋に連なる段丘利用型の山城構造
- 武田信玄を苦しめた「砥石崩れ」の舞台としての歴史的重み
が一体となった、きわめて個性的な山城です。登りやすい城ではありませんが、そのぶん、登り切ったあとの景色と充実感はひとしお。
2000万年前の海の底が隆起してできた段丘の上で、戦国武将たちが命を懸けて戦った。そんなスケールの大きな時間の重なりを、足元の砂利と息づかいを通じて体感できるフィールドです。
体力にある程度の自信がある方は、米山城 → 砥石城 → 本城 → 枡形城と尾根をつなぐフルコースで、少し控えめに楽しみたい方は、砥石城〜本城周辺を中心に、無理のない範囲で歩いてみてください。
「登りづらさそのものが防御になる山城」という、砥石城ならではのウェルネス体験が待っています。
免責
本記事は、公開されている資料・現地看板・一般的な地形・地質情報および筆者の現地体験に基づいてまとめたものであり、歴史・地質・効果を断定するものではありません。
登城・観光の際は、必ず最新の交通情報・気象情報・現地の案内に従って行動してください。




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