基本情報
形態:山城
標高:250m
城の整備:駐車場
所要時間:30分
訪問日:2012年8月
駐車場 アクセス
東北の大震災のボランティアをするために、大田原市を通ったので、寄ってみました。その時は、ふといろんな疑問が出たので考察してみます。
縄張り図 現地看板
城域に入る
駐車場から本丸を通り三の丸方面へ
基本的にアクセスはしやすいです。いきなり、この土塁の高さ。
空堀を見ていますが、深く、横矢掛かりのようにも見えます。
すると、再び升形が現れます。すごい守りが堅い
そして、この空堀。どこもかしこも、空堀が深く切岸も高い。さすが関東の土の城って感じです。
本丸から馬出郭を経て
三の丸 芭蕉の館
本丸から馬出郭を越えて進むと、突然、石垣と地下通路に差し掛かります。しかし、これは新しい気がします。この門は、三の丸にある「芭蕉の館」
このような銅像もあります。14日間も滞在したとか。
ちょっと、期間が長いですね
この松尾芭蕉という人
管理者の記憶では、石川県の小松市にも松尾芭蕉は来ていて、二回も小松に来たと聞いたことがあります。理由は、すごく俗っぽい内容でしたが。この黒羽城で14日間も何をしていたのでしょうか。徳川の隠密だった松尾芭蕉。徳川家康の指示で大規模改修がされた黒羽城。これはもう。。。
怪しいとしか言いようがない
空堀に降りてみる
その先もどんどん進む。この空堀の高さ。
水堀に降りてみる
八王子の滝山城もすごいが、関東の城って本当にスゴイ。堀は深いし、高い。西日本で、太刀打ちできるのは、もはや南九州型城郭ぐらいでしょうか。
空堀の内部を歩いてみる。その造り込みの高さに気が付く。
小田原の小峯御鐘ノ台大堀切かと見間違うほどです。こんなに簡単にアクセスできるのは最高。
架橋を下から見てみる。当時、このような橋があったかどうかは不明ですが、なければ、隣に渡ることも困難なほど、横幅が広いです。
この壁を登ることは不可能ですね。
さて、ここまでで疑問があります
それは、
なぜ、石垣がないのだろう??
案内看板によれば、徳川家康の指示で対上杉用に城を大規模改修。その後、明治時代までの長きに藩は続いたとありました。と、なれば、水堀を備えて、石垣でガチガチで固める傾向があります。
でも、石垣はないし、水堀らしい水堀もない。そこで、少し地質を調べると、非常に興味深いことが分かったため、ちょっと考察してみました。
地質から 水はけが良すぎるのも考え物
ここ黒羽城の地質図を見ていて、気が付いたことがあります。非常に特徴的な岩質の際にあることが分かります。
黒羽城の東方は、砂岩層(黄色)。逆に西方の赤丸は、周辺と明らかに色が違う黄緑色です。実は、この場所は、しっかりと名称が付いています。それは
那須野ケ原
約四万ヘクタールの広大な複合扇状地・堆積地なのです。那珂川と箒川に挟まれ、大小の砂利からなる砂礫層が分厚く堆積したこの扇状地では、降った雨も山地から流れ出た川の水もすぐに地下に浸透する
つまり、水はけがものすごく良い。というか良すぎる。
また、火砕流も多く含まれるとのこと。出ました。火砕流。それは、いったいどこのものなのか!?
那須塩原温泉があるということは、火山があるということ。どうやら30万年前に起こった3度の大爆発で、火砕流が起こり、那須野ケ原に流れ出たとのこと。特に那須野ケ原の下方に火砕流分があります。
このような地質のために、江戸時代までは不毛の台地であり、特定の人間しか住まなかったとのこと。となると、この黒羽城を治めた黒羽藩の江戸時代の石高は、
1万8千石
気づき
授業で、1万石以上は大名扱い、城を持つには3万石が必要と学んだ記憶があります。おそらく、
- 石垣を組むのは財政的に厳しかった
- 礫・砂利と砂岩層では、適当な岩石も採取できなかった
このあたりが、石垣がない理由かなあと考察します。しかし、石垣が組めない分、土による技巧的な縄張りを実現した藩主の腕前はすごいなあと思いました。
あの「奥の細道」松尾芭蕉が14日間も滞在した場所
コメント
おおお、ブラタモリより詳しい土地紹介ですね。あの番組が終わるそうなので、頑張って下さい。ただ、関東の城では石垣より土塁が普通のようですし、傾斜角度によっては関東ローム層のツルツルの壁面を登るのは大変みたいですね。
なお、城主になるには3万石以上というのは無理筋です。訪問された苗木城や、訪問されてない海城の田原城、いずれも3万石をはるかに下回りますが、城主です。江戸時代が始まった時に城があった所の領主になれば城主、でなければ御三家の連枝の西条藩主でも城主以下ということになります。幕府は大名コントロール手段として、官位、石高、国主城主領主、江戸城での詰席、などなどと細かい、なおかつ相互矛盾するようなルールを作ってました。もともとの城ではない場所でも藩主に功績があれば、城主に認定してました。出羽松山城主になった酒井氏は2万5千石でした。
京都あたりでは、もともと城主だった小出氏が園部に移されてお城がないので築城したいと何度も願っても許可されず、明治政府の許可を得て築城したという話もあります。